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        東아시아의 天下思想 : 廣開土王碑文神話와『古事記』를 中心으로

        權五曄 한국일어일문학회 2002 日語日文學硏究 Vol.41 No.1

        元より、優れた文明を持つ中國は、は早くから周邊國との效果的交流を圖って 居るうちに、中華思想を完成し、周邊國をその世界に含ませていた。高句麗や倭もその周邊國になって、朝貢して冊封されていた。しかし、その周邊國らは、その經驗を生かして、自國中心の天下觀を構築していた。それが實現された天下では、高句麗や倭も、天下の中心であるので、すべての交流を獨占して、絶對權力を行使している。高句麗は碑文で、日本は[『古事記』で自分の天下を實現したわけである。それで、構成の內容においては異なっているが、自國中心に展開させている點では同質的である。兩天下が中國を省略している事が良い例にをる。つまり、東うアジアは同質の天下觀を以て、獨自の天下を實現させているのである。

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        신라국과 우산국

        권오엽 한국일본어교육학회 2007 日本語敎育 Vol.39 No.-

        『三國史記』の記錄によると于山國は愚悍な島夷の國になっている。新羅に服屬すべき國として語られている。しかしそれは新羅中心の話で、于山國に對する配慮が欠けた記錄に過ぎない。于山國の說明に用いられた用語もやはり新羅中心語なので、その言葉らを逆の立場、卽ち于山國の立場から讀み直すと新羅を迎てて對等に戰っていた于山國の面影が浮かんでくる。新羅は于山國の征伐が單なる威では難しいことを知り、木で作った獅子を見せながら脅かす計略を取り、于山國を服屬させようとした。これはその征伐が二回以上行われたこと、于山國が一回以上新羅を擊退したことを示唆する。また新羅の王族であり最高級の官吏である異斯夫の責任で征伐が行われたことは、それが拳國的な攻擊であったことを意味する。それを迎て對戰して、退いたのが于山國であることを考えると、于山國こそ獨自的な國であったことがわかる。その國威は威による攻擊は退けたが獅子像を見せる脅かしに屈したことからも伺える。威で服屬させなかったということは、國が團結して充實な國力で抗戰していた于山國の國力の反證である。また獅子を恐れたことは于山國の文化と國際交流の樣子を物語てくれる。獅子というものは于山國はもちろん高句麗、百濟、新羅にもない。中國にもなく印度にある猛獸であった。それを于山國が經驗することはあり得ない。それで怖がるはずもない。なのにそれを怖がり服屬したということは、于山國が國際交流などの方法を通じて、文化や宗敎などを通じてそれを間接的に經驗したことになる。獅子というものは空想の動物や靈魂を運搬する神の使者、佛法を守護する聖獸、または呪術的能力を發揮する動物として知られていた。于山國は獅子の外形をみて以上のことを思いだし、それを怖がったのでろう。つまり、威の侵略には耐えたが、獅子を媒介する文化的計略に騙されたわけである。それは文化の差による敗北であったといえる。于山國がそれくらい新羅と對戰できたのを考えると、于山國こそ强力な國家で、獨自的くにであったことがわかる。只、鬱陵島のみを以て成り立つ國ではなく、周邊の諸島を統合していた國であったと思われる。その統合の過程をへていたので國をも名秉っていたはずである。その一定の領域が獨自の秩序で統治されていたとみられる。新羅の侵略に對抗していたことが何よりの證據である。その實情を認めたので新羅も國を付けて于山國と呼んでいたと思われる。その統合した周邊の島の中に獨島も含まれていたはずである。日本は獨島を竹島と呼びながら自國領であることをこじつけている。『三國史記』の于山國の記錄に獨島のことが言及されていないことを言い譯にしてそこには獨島が含まれていないと主張している。17世紀に鬱陵島/竹島が朝鮮の領土であることを認めたこともあるが、そのとき認めた領域には獨島は含まれていないということだ。しかし『三國史記』などの記錄の于山國に獨島が含まれたことが明確である以上そのような主張は成り立たない。

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        『원록구년병자년조선주착안일권지각서(元祿九年丙子年朝鮮舟着岸一卷之覺書)』과 안용복(安龍福)

        권오엽 韓國日本語文學會 2008 日本語文學 Vol.39 No.-

        日本に二回も渡海した安龍福は鬱陵島と子山島が朝鮮の領土であることを認める關白の書契を受け取ったとの陳述をした。その陳述が事實ならば日本が主張する竹島/獨島に對する歷史的正統性は成り立たない。それで日本は必死になって安龍福を否定しようとする。ところで2005年に發見された『元祿覺書』は安龍福の陳述と同質の內容を傳え、日本の主張、特に1904年までの朝鮮は獨島の存在も認知していなかったという主張はもちろんそれに基づいて歷史的正統性を語る意見も成立しなくなった。31段で構成される記錄は安龍福一行が陳述した內容と代官所の役人が觀察した內容に分かれるが、一行に關連する內容に限定される。一行のなかには安龍福以外に日本語を理解するものがなさそうで、殆どが安龍福が渡した書面や安龍福の陳述に基づいた內容とみて差し支えない。雷憲や李裨元が渡したものも有るが、それも安龍福の認識の範圍內のことと看做せる。代官所が一行の要求を肯定的に對處したのは國際交流で全てが鳥取藩を通じて幕府へ傳達されるということを予測していたからとも言えるが、一行の陳述が事實と違わないということを現場檢證する方法で確認して信賴するようになった面もあった。一行も自ら出頭して漂着した狀況と渡海目的を明かし代官所との對談に誠實に臨むなど禮を取っていた。對談を終えた後には鮑を送り、食糧を求めるときも格式通り書面をもってし、助けられた後も感謝の例を取っていた。その一方で三年前鳥取を訪ねた經驗を語り、訴訟書を整理するための便宜提供を要求し、渡海が三年前の渡海經驗と連繫して行われたことも分かる。また一行と代官所との交流が書面中心であったということはその中心に位置する安龍福が文字生活に慣れていたことになる。代官所の役人たちは一行の行跡を觀察して報告に必要な情報を誠實に收集しているなど任務修行に忠實であった。一行の身分はもちろん彼らと交換した書面類まで報告書に添付し、鳥取藩に事前準備する時間を與えようと考えたように、報告書の返事を待つという口實で一行を引き止めていた。その代官所の役人たちの記錄は客觀的であると言え、安龍福はもちろん彼に關わる獨島問題の本質を理解するには欠かせない資料であると言える。

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        안용복(安龍福)의 일본 도해의 의미

        권오엽 한국일본어문학회 2006 日本語文學 Vol.31 No.-

        17世紀に日本は漁撈中の安龍福を拉致し、それを口實に鬱陵島を磯竹島と稱して朝鮮人の渡海禁止を要求した。朝鮮朝廷は一島二名であること、三國時代以來朝鮮に屬する領土であることを云い聞かせ、その結果、ついに日本人の渡海禁止を江戶幕府が發するに至る。江戶幕府が公式的に朝鮮の領土であることを認めたわけである。しかし今では、日本人の渡海を禁止しだけで朝鮮の領有を認めたわけではないと主張しており、これが現今の韓日問題の爭点の一つとなっている。ところが、これは朝鮮朝廷から何の支援も受けていなかった安龍福の個人的な活躍の結果であると言っても良いことであった。安龍福は日本に拉致され、日本の間違った領土意識に立ち向かい、日本の認識それ自體を變えさせる役割を果たした。その安龍福に對して對馬藩は勿論朝鮮朝廷も犯罪者扱いをして拘禁し、朝鮮の官吏たちは死刑をも主張した。日本の武威を恐れる一種の事大精神であった。安龍福を拉致したのは地理的には鳥取藩に屬するが、江戶幕府の重臣との私的關係をもつ米子の商人らであった。しかしそれは朝鮮との通交を獨占している對馬藩の利益と衝突を招く可能性のあることであったし、鳥取藩としても國家的政策として嚴しく維持されていた鎖國政策に反し、密貿易の疑いを買うことでもあった。そのうえ朝鮮朝廷の論理に妥當性があったので、江戶幕府も日本人の渡海を禁止するようになったのである。そのとき江戶幕府は隣國との誠信を重要視したが、それは今こそ要求される德目である。また考えてみるべきは、自國の領土に關する知識を基にした安龍福の實踐的行動である。報われることなしに、處罰されることを予見しながらも信念に基づき實行された渡海活動の意味を点檢してみる。

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        在日同胞 鄭煥麒

        권오엽 한국일본어문학회 2013 日本語文學 Vol.57 No.-

        渡海人たちは日本の古代王朝の中心に位置しながら王朝の交替があるたびに主導していた。それは彼らが文字能力を備え、中?が主導する東アジアの勢力競?において優位を占めていたからである。日本は万世一系と言うが、これは日本の天下を語る『古事記』や『日本書紀』の?容とは異なる主張である。?神天皇や??天皇は異なる血統の渡海人で、渡海人らによって?位した。王朝の交替が渡海人の勢力競?を背景にして行われる?況において、渡海人を差別するようなことは有り得なかった。勢力?いや?得?を維持する目的の警戒や敵?はあった。渡海人の文字能力による律令統治が可能になると渡海人を警戒する動きが?化され、渡海も少なくなった。そうした渡海人の位置は豊臣秀吉や明治帝?の侵略を契機にして?落し始めた。蔑視と賤しめの?象に?落し、朝鮮という?名が??となる程であった。日本が侵略の成功を民族の優秀性と?連づける20世紀の初頭、1927年に鄭煥麒は日本の名古屋へ移住した。日本の土地政策で農地を喪失し日雇??者になった父親に率いられての移住であった。民族の誇りや個人の自尊心を省みられない時代に父母の家庭?育で難?を克服しながら日本を生きた彼は、少年時代に夢見たことを?現できる??人に成長した。そして??しながら考えることを多くの著書として世に出し、20世紀を??した在日同胞の由?と意味を理解できる資料を提供している。その記?に根?して彼の思考と業績を知ることは、彼の祖?と彼が生きてきた日本を理解する良い標になるに違いない。

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