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      • KCI등재

        일본의 사회과학자들과 ‘전후 사회과학’의 형성

        남기정 고려대학교 글로벌일본연구원 2013 일본연구 Vol.19 No.-

        本研究は、東京大学社会科学研究所を素材に日本の「戦後社会科学」の形成を知識社会学の手法で追跡し、その意義と限界を検討しようと試みたものである。社会科学研究所の誕生は、戦前の総力戦体制のもとで弾圧された社会科学という用語を敢えて研究所の名称として用いることによって、戦前の日本と決別し新生日本の再生を象徴する事件であった。その社会科学研究所には、戦前においてその思想や態度を疑われ大学から追われた研究者が含まれていた。そのことからマルクス主義との親和性が初期の社会科学研究所の一つの特徴として現れている。また社会科学研究所には、京城帝大や北京大学など「外地」の大学から撤退し引揚てきた研究者などが初期のメンバーとして含まれていた。しかし、彼らの戦後の作業のなかに、戦前の植民地経験が深く根を差した形で分析された痕跡はあまり見られない。それは、社会科学研究所が目指した目標とも関係するものとして注目すべきである。即ち、マルクス主義者であれ、近代主義者であれ、社会科学研究所に集まった研究者たちは西洋近代に起源をおく社会変革への道程を社会科学的に明らかにし、日本の目指すべき進路として提出することを自らの使命としていたからである。一方、社会科学が何であるべきかという、社会科学そのものの目標をめぐる論争は余り活発に行われなかった。初期、研究所に集まった多様な構成によるものと見られる。 社会科学研究所の社会科学がもつ特徴は次の三つに要約できる。第一、それは「平和」と「民主主義」に学問が貢献すべきであるという時代的召命を鋭く意識しながら展開した。第二に、欧米を事例にした研究に対比し、比較研究の対象としてのアジア地域研究は、欧米の理論から距離を置き内在的理解を求めるものであった。第三に、社会科学研究所の社会科学の限界として、普遍理論化の努力が不足したという点を指摘することができる。その限界とは別に、社会科学の方法については明確な認識の共有があった。「比較、総合、実証」という三点セットの社会科学方法論は「社会科学研究所の社会科学」をまとめる最小共倍数であった。特に比較研究は社会科学研究所がもっとも得意とするものであり、その素地と原型が初期の15年間に整えられた。ここから「方法としてのアジア」を逆転させた「方法としての日本」ともいうべき、社会科学研究所の目指した新しい志向を発見することが可能である。

      • KCI등재

        日本における保育所要求運動の展開とその意義

        김지미(金智美)(Kim, Ji-Mi) 일본어문학회 2012 일본어문학 Vol.59 No.-

        本研究の目的は、日本の高度経済成長期に展開された保育所要求運動を追跡し、とりわけ、その運動の展開過程において「権利としての保育」への認識がどのように生成·確立されていったかを捉えることである。そこで、本研究では、高度経済成長期の日本における保育所要求運動が、日本各地でさまざまな「運動」と結びつきながら広がっていったことに着目し、地域社会(川崎市)レベルにおける事例研究を進めていく。こうした川崎市における事例研究を通して、本研究では、高度経済成長期の日本における保育所要求運動の展開においては、子どもの保育に対して「権利」として認識していく過程が見られることを明らかにするとともに、その運動の意義が母親をはじめとする地域の住民らに「権利としての保育」への認識を目覚めさせたことにあることを主張したい。

      • KCI등재

        복합격조사 「にとって」와 「として」의교체에 관한 분석

        정혜지 한국일본언어문화학회 2013 일본언어문화 Vol.26 No.-

        This paper attempts to investigate the established conditions for the exchangeof complex case particles such as 「nitotte(にとって)」 and 「tosite(として)」, focusingon the characteristics of preceding noun and subsequent predicate. The results canbe summarized as follows. There is a case where the complex case particle 「tosite(として)」 can be replacedwith 「nitottewa(にとっては)」 when it indicates 「the judged and subjectified positionby taking nouns that represent the person or organization」in the form of 「tositewa(としては)」. While 「tositewa(としては)」indicates 「the position that implements judgments onthe behavior and state of the predicate」 mainly at the front of the sentence,「nitottewa(にとっては)」 can be said to represent 「(assumed) standpoint」in whichsuch judgments are established by restrictively taking state-related predicates suchas 「expression indicating impossibility」, 「expression indicating inner feelings orsense」, and 「value judgment or evaluation」 from the predicate. Accordingly, it can be safely said that when 「tosite(として)」 indicates 「judgedand subjectified position」, it can be replaced with 「nitotte(にとって)」 only in caseof taking 「state-related predicates that create feelings and make value judgmentor evaluation」 from the predicate. And when what is equivalent to A as in [Aは(wa) Xにとって(nitotte) / Xとして(tosite)....] refers to abstract information by taking a long modifier phrase), theexchange of both complex case particles is easy. In addition, it can be said that the replacement with 「tositewa(としては)」became easier since the meaning of 「contrast」 or 「specification」is added to「nitotte(にとって)」 due to the proclitic 「wa(は)」. Based on the results of the aforementioned study, this paper attempts to describethe features of the sentence pattern 「Xにとって(は)(nitotte(wa)), Aは(wa) Bだ(da)」 as follows. [1] From the point of view in which X is assumed semantically, it is possibleto judge that 「A is B (Aは(wa)Bだ(da))」. [2] 「X」 is mostly referred to as the person or its equivalent personifiedorganization. [3] 「B」 has many parts of speech with a high status characteristics such as nouns,predicates and adjectives. [4] There are many cases that require contrastive contexts.

      • KCI등재

        中国語の介詞“作为”と日本語の複合助詞「としては」について

        馬小兵 한국일본언어문화학회 2015 일본언어문화 Vol.31 No.-

        This paper is a research on the “作为……来说” in Chinese and the “としては” in Japanese, examining the condition in which the both parties will show a real subject of sentence and the correspondence of “作为……来说” and “としては” when they show a real subject of sentence. As a result, we clear the following facts. In Chinese, ”作为……来说” only cooccur with the meaning of “duty・ability・desire・reason”, and the scope is relatively narrow. On the other hand, in Japanese, “としては” can cooccur with the meaning of “duty・ability・desire・position of subject・confirmation・description”, and etc. So the scope of “としては” is relatively wider than that of “作为……来说”. Particularly, when the showing a real subject of sentence, “作为…来说” can not correspond to the “としては” if it doesn’t marinate with a supplementary condition like the “是…”([…ノダ]).

      • KCI등재

        判断主体を表す複合助詞「としては」と「にとっては」の比較

        裵銀貞(배은정, Bae, Eun-Jeong) 일본어문학회 2009 일본어문학 Vol.46 No.-

        本稿では、判断主体を表す「としては」を考察対象とし、その共起条件と意味特徴を「にとって」と比較しながら考察した。従来、判断主体を表す 「としては」は、モダリティ成分を伴う動詞文とコピュラ文の一部と共起しやすいということは指摘されたが、本稿の考察の結果、話者の感情、判断を表すことが出来る場合は、状態述語でも共起可能であることがわかった。但し、単純な属性を表す状態述語の場合や、「実質名詞+だ」などのコピュラ文の一部は「としては」に共起できないことが確認された。 また、「にとって(は)」と置き換えできる「としては」を取り上げ、「にとって(は)」との役割と意味上の違いを比較してみた。その結果、「としては」は主題の役割をするものの、「にとって(は)」にはそのような役割は認められず、また「にとって(は)」には対比の意味合いがあるが、「としては」にはそれが含まれていないことがわかった。すなわち、「としては」の一部に「にとって(は)」との置き換えが可能な場合はあっても、両複合助詞の根本的な役割や用法には違いがあることが確認できた。各複合助詞に見られる使い分けの問題は最近日本語教育の属面から注目されているため、本稿を考察結果は日本語教育の側面にも有効に用いられるのであろうと判断される。

      • KCI등재

        ‘보편주의’와 ‘보편성’의 사이 : 스코틀랜드 계몽과 국민문학

        미하라요시아키 인하대학교 한국학연구소 2012 한국학연구 Vol.0 No.27

        보편과 관련하여 질문해야 할 것은 ‘보편주의란 무엇인가?’ ‘보편성은 무엇인가?’라는 형이상학적인 물음이 아니라, ‘보편주의와 보편성은 어떤 관계인가?’ ‘그 관계성이 어떠한 분석 장치로서 유용한가?’라는 프라그머틱한 물음이다. 이데올로기로서 (사칭된) ‘보편성’이란, 소위 ‘보편주의와 특수주의의 공범관계’를 부드럽게 구동시키기 위한 윤활유와 같은 것이라고 말할 수 있다. 그에 비해, 본고에서 제기하는 ‘보편성’이란 이 ‘공범관계’에 ‘절단’을 반입하는 ‘무엇인가’라고 할 수 있다. 그리고 이 ‘무엇인가’는 실체로서(=그 자신에 있어) 존재하는 ‘사물’이 아니라, 어디까지나 ‘관계성’을 지시한다. 다시 말해 그것은 어디까지나 ‘지금, 여기’에 각인되어 있는 균열·틈새로서 현실적으로 작동하는(現働化, actualisation) 잠재성(virtualité)이다. 즉, 그것은 어디에선가 우리들을 기다리고 있는 ‘것(사물)’이 아니라 ‘부재 원인’으로서의 ‘힘(역능, potentia)’과 같은 것이라고 할 수 있다. 그리고 최재서와 관련해서 우리는 바로 이런 맥락에서 살펴볼 수 있을 것이다. ‘주지주의 문학론’의 기수로서 비평의 문제와 정면으로 씨름했던 최재서의 ‘보편성’에 대한 지향이, 국민문학 주간으로서 행한 명백한 ‘친일행위’에 다다랐을 때는 제국 일본의 프로파간다인 ‘대동아공영권’이라는 ‘보편주의’로 낙착했다고 할 수 있다. 그에 대한 ‘보편주의적’ 해답이란, ‘천황’이라는 실로 단순하고도 ‘절대적’인 통일에 의해 조직된 ‘진정한 일본인’이라는 동일성 사고에 고착되는 것이었다. 그러나 뒤집어 보면, 애초 최재서가 일본/조선이라는 그야말로 ‘보편주의와 특수주의 공범관계’인 이항대립에 대해 도래해야 할 ‘국민문학’이라는 ‘절단’의 계기를 도입하고, 게다가 식민지 조선의 작가와 비평가들이 ‘국민문학’으로의 대전환(즉, 일본문학, 조선문학의 동시적 지양)을 솔선해서 하지 않으면 안 된다는 프로그램을 명시했을 때, 그것은 여전히 ‘문제’의 토포스에 머물러 있다고 할 수있다. 다시 말해, 최재서가 제출한 ‘국민문학’이라는 ‘문제’는 잠재적으로―즉, 그것이 지향하는 ‘보편성’을 잠재성의 한 범주로 연결해 두는 한에서―이러한 보편주의적 ‘해답’에 대해 ‘영원히 충돌의 원천’(언제나 이미 ‘문제’인)과 같은 ‘사건’이었던 것이다. 최재서가 그러한 ‘해답’에 도달했던 데는 어떠한 종류의 필연성이 있었다고 할 수 있을 것이다. 그러나 설령 ‘해답’(현세태, 現勢態)이 필연적이었다고 해도, 거기서 균열·틈새로 (징후적으로) 읽어내는 것이 가능한 ‘문제’(잠재태)를 적출해내는 비평적=위기적 외과수술을 시도해보는 것, 그것이 식민지 상황에서의 ‘비평’의 문제를 생각해보고자 하는 오늘날 우리들의 과제이다. 나아가 (‘보편성’이 상실되어, 언제나 ‘보편주의’의 유혹에 사로잡혀 있는) 그것은 ‘근대’ 일반의 문제이기도 하다. 아담 스미스가 이상으로 삼은, 자신을 ‘개량’하는 개인-제국의 주체로서, 그리고 시장경제의 단위로서 추상화·일반화된 ‘보편적 개인’이란 실은 ‘보편주의’적 개인에 지나지 않는다. 그 점을 간파하고, 거기에 ‘비평’의 메스를 지속적으로 집어넣는 행위 안에서 ‘보편성’의 흔적이 발견될 수 있다는 것이 중요하다. 本講演は、 「普遍主義」と「普遍性」という一対の概念に関する理論的考察(前半)および、 崔載瑞の「国民文学」論と絡めて「スコットランド啓蒙」という話題の提供(後半)で構成されている。 前半の理論的考察において、 まず重要なことは、 「普遍主義」(「国民主義」「民族主義」「帝国的国民主義」など)とは、 つねに「普遍性」を詐称するものであるが、 その実態は「特殊性」の単なる量的な拡張である「一般性」に他ならず、 その「詐称」によるイデオロギー効果は「普遍主義と特殊主義の共犯関係」(酒井直樹)の隠蔽に他ならない、 ということである。 では、かように「詐称」されたものとは別に、 本論で概念化を試みる「普遍性」とはなにかと言えば、 まさにこの「共犯関係」に「切断」をもちこむ「なにか」である、 ととりあえずは言えるだろう。 それは、 「どこか」に実体として想定されるものではなく、あくまで「いま·ここ」に刻み込まれる亀裂·空隙として現働化(actualisation)する潜在性(virtualité)であり、 エチエンヌ·バリバールが「理念[理想]的普遍性」と呼び、 ジル·ドゥルーズが「『問題』としての≪理念≫」と呼んだような「なにか」である。 以上のように概念化される「普遍性」は、 「特殊」―「一般」軸(普遍主義)の基盤をなす同一性の思考(同一律)にまったく依拠しない差異的=微分的(différentiel)な「特異性」(singularité)を持つものであるがゆえに、 「問題」に対するあらゆる「普遍主義」的解答を「炸裂」させる。 このような「問題」という観点から崔載瑞の「国民文学」論を再審するならば、 それは、 日本/ 朝鮮という(まさに「普遍主義と特殊主義の共犯関係」である)二項対立に対して、 来るべき「国民文学」という「切断」の契機を導入し、 しかもその「国民文学」への大転換(すなわち、 「日本文学」「朝鮮文学」の同時的止揚)を植民地朝鮮の作家や批評家が先導する、 というプログラムを胚胎するその潜勢力において「普遍性」の「出来事」であったとも見なすことができるだろう。 この意味でも、 崔載瑞の「国民文学」論は、 親日行為という「解答」によって即座に断罪されるのではなく、 「問題」として理論的に取り組まれるべきであり、 その「問題」が生み出す亀裂や空隙に対しては「徴候的読解」の手法で臨まなければならない。 そのような読解の一助として、 本節の最後に、 崔載瑞初期の英文学研究への一視角を試論的に提出する。 後半は、 ある話題(トピカ)の提供であるが、 それは、 崔載瑞の有名な(悪名高い)「朝鮮文学=蘇格蘭文学」説に「トピカ的発見法」でアプローチする試み、すなわち、 「スコットランド啓蒙」から「英文学」が生まれたという興味深い歴史的事実と、 崔載瑞の「国民文学」論とを重ね合わせてみることによって、 なんらかの発見がありうるのではないか、 という問いかけである。 イングランドとスコットランドの「合同」(1707年)の余波として「スコットランド啓蒙」運動が興隆することになるが、 そこには、 スコットランドの知識人たちが「ブリテン」という英·蘇両者を包摂(止揚)するカテゴリーへの投企を試み、 またそうすることにより大英帝国とともに世界に拡大する戦略をとった、 という側面がある。その一翼を担ったのが「改良」の手段としての「英文学」であり、 その最初の講義を行ったのが、 一説によると、 「古典派経済学の父」アダム·スミスであったというのには、 単なる偶然では片付かない思想史的な意義があったといえるだろう。 その講義の受講者であったジェイムズ·ボズウェルと、 18世紀イングランドの「文学王」サミュエル·ジョンソンをめぐるいつくかの逸話で本節は締めくくられることになるが、 英文学徒として、 ボズウェルの『サミュエル·ジョンソン伝』を熟読したに違いない崔載瑞が、 その伝記のなかに時折突出する、 伝記作者ボズウェルのスコットランド人としての出自をめぐる逸話に敏感に反応したであろうことを想像すると、 この「トピカ」が孕む豊穣さを感じ取ることができる。 おわりに、 最近『ガーディアン』紙に載ったスチュアート·ホールのインタビューの中に、 原初的でカテゴリカルな「否定性」=「普遍性」が突きつける「問題」に憑かれることによって「批判的知識人」であり続けた「老大家」の姿を見いだすことによって、 本講演は閉じられる。

      • KCI등재

        複合助詞「として(は)」の諸用法について

        裵銀貞(배은정) 동아시아일본학회 2011 일본문화연구 Vol.38 No.-

        종래, 복합조사「として(は)」에 관한 분류는, 주로 형태적인 측면이 중심이 된 분류기준을 중시해 왔기 때문에 실제 같은 종류로 분류되어도 좋을 용법이 다른 용법으로 나눠져 있거나, 「として(は)」의 「は」가 생략 가능한 경우와 그렇지 않은 경우의 용법이 혼재되어 있는 등의 문제점을 안고 있었다. 또한, 2가지 이상의 의미특징 및 용법이 동시에 관찰되는 「として(は)」를 어떻게 분류할 것인지에 대한 언급도 되어있지 않았다. 이에 본고에서는 상기의 문제점을 해결하기 위하여 복합조사「として(は)」를,「は」가 생략가능한 경우와 그렇지 않은 경우로 분류한 상태에서, 「として(は)」의 제용법을 새로운 시각에서 고찰해보았다. 본고의 연구결과를 정리하면 다음과 같다. 〈「として」의 용법:「は」가 생략가능〉 ① 자격, 명목, 용도를 나타내는 경우 ② 평가근거, 판단기준을 나타내는 경우 〈「としては」의 용법:「は」가 생략불가능〉 ① 단순한 판단근거를 나타내는 경우 ② 판단근거의 의미를 지니는 판단주체를 나타내는 경우 ③ 판단주체의 의미를 내포하는 판단근거를 나타내는 경우

      • KCI등재

        判断主体を表す複合助詞「としては」と「にとっては」の比較 - 日本語教育の側面から -

        배은정 일본어문학회 2009 일본어문학 Vol.46 No.-

        本稿では、判断主体を表す「としては」を考察対象とし、その共起条件と意味特徴を「にとって」と比較しながら考察した。従来、判断主体を表す 「としては」は、モダリティ成分を伴う動詞文とコピュラ文の一部と共起しやすいということは指摘されたが、本稿の考察の結果、話者の感情、判断を表すことが出来る場合は、状態述語でも共起可能であることがわかった。但し、単純な属性を表す状態述語の場合や、「実質名詞+だ」などのコピュラ文の一部は「としては」に共起できないことが確認された。 また、「にとって(は)」と置き換えできる「としては」を取り上げ、「にとって(は)」との役割と意味上の違いを比較してみた。その結果、「としては」は主題の役割をするものの、「にとって(は)」にはそのような役割は認められず、また「にとって(は)」には対比の意味合いがあるが、「としては」にはそれが含まれていないことがわかった。すなわち、「としては」の一部に「にとって(は)」との置き換えが可能な場合はあっても、両複合助詞の根本的な役割や用法には違いがあることが確認できた。各複合助詞に見られる使い分けの問題は最近日本語教育の属面から注目されているため、本稿を考察結果は日本語教育の側面にも有効に用いられるのであろうと判断される。

      • KCI등재

        日本語教育の協働学習の広がり- アジアのグローバル化を背景として-

        池田玲子 한국일어교육학회 2020 일본어교육연구 Vol.0 No.50

        In the background of global society, collaborative learning (peer learning), which was proposed in the field of Japanese language education as a second language, was established in Tokyo, Japan as a base for practicing and studying it (September 2010). In the first part of this paper, the concept of collaboration in Japanese language education by the author in 2007 is described, and then four theories that support “collaborative learning (peer learning)” based on this concept are described as well. After that, the background of the establishment of the “The Society for Research on Collaboration in Language Learning” for teachers to practice and study collaborative learning in order to promote the practice of collaborative learning is explained, and the philosophy set up by this research group is also explained, and then we report on the activities of the study group, which has been transmitted from Japanese language education as a second language to overseas Japanese language education sites as foreign languages, and building bases to connect overseas education sites with Japan. I report on activities especially in the Asian region and the current situation, at the stage of establishment of each base. Finally, one of the issues of future collaborative practical research centers on Asian Japanese language education is, first, to activate collaborative practical research among centers for the organic development of Asian networks, and second, the aim to establish a Japanese language education in each region by collaborating with other fields in the practice of collaborative practice in each region. グローバル社会を背景として、第二言語としての日本語教育分野に提案した協働学習(ピア・ラーニング)は、これを実践し研究するための拠点として日本(東京)に「協働実践研究会」を設立した(2010年9月)。本稿では、まず、筆者が2007年に提示した日本語教育における協働の概念について解説し、この概念に基づく「協働学習(ピア・ラーニング)」を支える理論(4つ)について解説する。次に、協働学習の実践を進めていくために教師自身が実践し研究するための「協働実践研究会」を設立したことの経緯と本研究会の掲げる理念を示し、この協働実践研究会が第二言語としての日本語教育から外国語としての海外日本語教育現場への発信を行い、海外の教育現場と日本をつなぐための拠点構築を行ってきた活動について報告する。とくにアジア地域での活動とその現状について各拠点の確立段階について報告する。最後に今後のアジア日本語教育における協働実践研究拠点の課題として、第一に、アジアネットワークの有機的な発展のために拠点間の協働実践研究の活性化が挙げられる。第二に、各拠点の地域内において協働実践の活動が他分野と協働していくことで、その地域での日本語教育の確立を目指すことを課題とする。

      • KCI등재

        『螢川』の雪と家族

        金榮哲(김영철) 일본어문학회 2009 일본어문학 Vol.44 No.-

        『螢川』を川三部作として論じる場合の、川の意味を把握することの問題に関わりながら、作家宮本輝の体験と作品の世界の雪に仮託されているイメージを明らかにする。そこには不幸な家族史によって育んできたと思われる、人間の人生と生死の認識が基底を成している。作家は作品を虚構の世界を前提にして読んでくれることを言っているが、実体験としての作家の雪と家族を知ってからこそ、見えてくる作品の世界の膨らみを明かしてみる。

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