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        平安末期の物語の潮流

        吳娟煥 全南大學校 人文科學硏究所 1995 용봉인문논총 Vol.24 No.-

        平安末期의 「物語」世界에는, 종래의 日本散文 分野인 「物語」에서는 볼 수 없는 特異性이 있다. 즉, 從來의 「物語」類에의하여 만들어진 文學的 感性이나 期待를 마치 배반하는 듯한 批判性·思想性이 있다. 「物語」라고 하면 平安時代의 「藤原性」을 말하게 되는데 적어도 平安末期의 「物語」에는 藤原全盛期性은 아니고, 또한 「藤原性」을 代辯한다 할 수 있는 巨峰「源氏物語」도 아닌, 物語에 흐르고 있는 「特の女の淚の語り」만은 아닌 것이 있다. 物語라고 하면 平安時代를 말하게 되며, 그 作者는 「女」(女房=宮女)로 알려져 있는데, 이 平安末期의 物語作者를 論할 매도 그 作者나 讓者를 「女」로 斷定하여도 되는가 하는 疑問이 또한 있다. 따라서 그 作品(物語)成立年代나, 作者가 明確한 物語와, 平安末期頃이라고 推測되는, 三編의 物語를 通하여, 平安末期의 物語世界를 文學史上에서 考察한바, 「逢坂越えぬ權中納言」作品(物語)은 天喜三年(1055)이 咸立年代로서, 當時는 攝關制最後의 天皇인 第七十代 後冷泉天皇朝이며 主人公 "權中納言"에 浮刻된 絶望的인 時代相과 나약한 貴族像은, "藤原貴族" 最後의 "花火"이며 後冷泉朝像이라 할 수 있다. 天喜三年 當時 後冷泉天皇은 三十才로서, 아직 壯年이기는 하나, 攝關政治의 核인 皇予位置가 確保되어있지않은 狀態는 攝關政治上 不安한 要因임으로 後冷泉朝 最上級 貴族들에게는 이와 같은 時代相이 深刻하게 反映되었을 것이며, 이와 같은 狀況이 主人公 "權中納言"의 性情과 態度의 特異性으로서 表出되어졌다고 본다. 한편 "物語"라는 分野가 宮延의 女房生活에서 생겨난 点에서 볼 때, "小式部"라는 女房(宮女)作者에 의한 "權中納言像"은 虛構가 아니고 現實性으로서 다가오는 "歷史性"을 간직하고 있으며, 第 二·第 三의 小式部的 知的女性(女流物語 作者)이 後宮에 雲集하고 있었음을 物語의 內容으로 추측할 수 있다. 다음의, 平安末期頃이며 男性作者로 推測되는 「貝合せ」作品(物語)은 묘사하려 하는 主題的 對象에 焦點을 맞춤으로서 必然的으로 短篇이라는 斷面文學이 되지 않을 수 없으며, 細分해서 全體를 묘사하는 手法은, 物語의 巨峰「源培物語」的인 世界를 繼承하면서도, 더욱 斷面化한 特徵으로서 平安末期物語의 位相을 말하여 주며, "待つ女の淚の語り"가 아닌 人間愛가 넘친 氣品있는 웃음의 內容은, 또한 旣存物語에서는 볼 수 없는 点이다. 「蟲愛づる姬君」作品(物語)에서는 多面的인 特徵과 獵奇性, 그리고 二重構造性이 있다. 「蟲」으로 表出되는 自然·眞實·庶民性과 「蝶」으로 表現되는 傳統·虛像·虛飾·貴族性은 平安末期에대한 銳利한 諷刺와 告發이라 본다. 以上의 三篇의 短篇物語(作品)에서 나타나 있는 歷史性과 貴族像·人間愛와 기품 있는 웃음·獵奇性등은 하나의 共通性을 지니며 時世의 막다른 終末에 必然的으로 나타나게 된 産物의 「物語」라 본다. 物語는 時代 社會의 변모에 對應하여 時代의 讀者相의 趣向·傾向에의하여 變遷하여 왔으며, 흘러가는 時代의 要求에서 物語는 高度한 洗練함이 要請되어 온 것이므로, 따라서 例로 든 三篇의 物語에서는 時世의 變化를 읽을 수가 있으며, 여기에 描出된 近代的 感覺은 物語世界의 移行 自體를 말하고 있다 하겠다. 物語內容에서 "あはれ"를 自在하려는 징조는 時代가 要求하는 當然의 歸結이다. 爛熟의 極에서 下降하여가는 時世의 變化는 類型의 틀을 깨뜨리려 하는 苦痛이 따르는 것은 當然하며, 그것은 痛烈한 批判과 諷刺로서 나타나게 되는 것이다. 또한 從來의 物語世界의 虛를 찔러 新鮮美의 發見을 企圖한 表現은, 새롭게 흘러드는 物語(散文)分野의 立場과 文學속에 있어서의 美意識의 하나의 脫皮를 暗示하고 있는 点이라 본다. 바꾸어 말하면, 三篇의 短篇物語에서는 攝關政治 末期의 衰退期다운 唯美的·感傷的 背景과 平安 時代 長篇物語의 침체한 空氣를 뚫고 誕生한 特質의 現象이라 보며, 苦惱하는 平安末期의 良識있는 知識人의 思想과 時代에 對하는 反抗, 그리고 人間性에 대한 疑問의 提起로 본다는 한편, 貴族과 時代에 反抗하고 批判하는 階層이 當時의 知識人이라는点에 平安 末期의 悲哀가 있으며, 攝關時代掉尾의 「華」를 꽃피운 物語世界가 있었던 것이고, 平安 時代를 代表하는 「藤原」權門의 文學과 文化의 完成이 있으며, 假名文으로 表現되는 女房들의 「遊び物」에서 脫皮하여 本格的인 散文(小說)으로의 길을 더듬어 가기 始作한 移行하여가는 相과, 王朝性에서 反王朝性으로, 文學 世界가 貴族에서 庶民으로, 女性에서 男性으로의 相등, 物語文藝의 變質相을 말하는 새로움의 始作을 볼 수가 있다. 三篇의 短篇物語는 時世의 끝에서 生겨 날 수밖에 없는 樣相에서 태어난 産物이고, 平安 末期의 物語世界이며, 당시의 世相인 것이다. 物語 世界를 論할 때, 그 文學 世界의 精神 構造의 根底에 있는 것을 明確하게 하여야 하고, 이를 밝히기 위하여서는 精神 그 自體와 歷史的 展開와의 兩面이 考察 硏究되어야 하는 것이 基本이라 볼 때, 平安末期의 物語世界의 特異性은, 가장 攝關時代性을 지닌 悲運의, 그러나 好文인 後冷泉天皇과, 五十二年間 政權의 座에 맞았던 關白賴通의 政治性과 人間性, 그리고, 그 複雜함이 極에 달한 賴通을 中心으로 하는 近親一大血族家族集團 등의 地盤 背景에 注目하여야 한다. 第七十代 後冷泉天皇과 關白·藤原賴通은 時世의 終期에 必然的으로 나타날 수밖에 없는 歷史性의 結果인 「存在」이며, 院政開始 前夜의 藤原氏族 攝關體制 最後의 城砦이였으며, 이 城砦가 있었음으로서 攝關體制와 그 運命을 같이 할 수밖에 없는 掉尾의 「華」를 꽃피운 物語世界가 있었든 것이고, 世界에 그 例를 볼 수 없는 "女房"들이 後宮文藝의 主流가 된 足跡을 남기고 있는 것이다.

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        蟲愛づる姬君 : その異常性をめぐって Centering around the Abnormalism

        吳娟煥 全南大學校 人文科學硏究所 1982 용봉인문논총 Vol.12 No.-

        以上を纏めて見る。題名『蟲愛づる姬君』の「蟲」は、一見主題を示すようにも見えるが、異常者である「蟲愛づる姬君」を造型する上での、いわば方便、常食句であって、「蟲」自體が擔うよなものではない。題名のねらいはその趣向にあるのであり、その趣向達成のために登場させられているのが 蟲愛づるよである。

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        청폐사간탕(淸肺瀉肝湯)이 중대뇌동맥 폐쇄 후 재관류에 미치는 영향

        오연환,박인식,신길조,이원철,정승현,Oh, Yean-Hwan,Park, In-Sick,Shin, Gil-Cho,Lee, Won-Chul,Jeong, Sung-Hyun 대한한방내과학회 2001 大韓韓方內科學會誌 Vol.22 No.2

        Objectives : The purpose of this investigation is to evaluate the effect of Chungpesagan-Tang Extracts on reversible forebrain ischemia in Sprague-Dawley rats. Methods : the volume of cerebral infarction and edema, the pathohistological change of neurons, the number of survived neurons, neurotransmitters through immunohistochemical methods, proteins connected with neurotransmitters through immunohistochemical methods and the pathohistological change of neurons through electro-microscopy were investigated. From these reseach data, the protection of neurons and the activity of brain cells were examined. Results : 1. The infaction volume of the control group was 23.9%, and that of the sample group was 16%. 2. The brain edema volume of the control group increased by 17% compared to the normal group and that of the sample group increased by 10%. 3. The light microscopy revealed that the neurons in the ischemia-induced area and CA1 area of hippocampus were most heavily damaged and that the sample group was less damaged compared with the control group. Most pyramidal neurons died in 7 days when brain ischemia was induced. 4. The number of survived pyramidal neurons in the CA1 area of the hippocampus were studied. The normal group had 93 neurons/mm, survived the control group(after 3 days) had 21/mm, the control group(after 7 days) had 3/mm and the sample group 33/mm. 5. The immunohistochemical methods revealed that: (1) In the control group, the sensitivity of GABA, NOS, DBH were increased, and those of Synapsin, eEF-$1{\alpha}$ decreased. NOS and DBH had positive reactions in the control group, but negative in the normal group. (2) In thd sample group, the sensitivity of GABA, NOS, DBH were attenuated, and those of NPY, Synapsin, CaMKII, eEF-$1{\alpha}$ increased when compared to the control group. 6. The electro-microscopy revealed that most neurons died by necrosis and some neurons died by apoptosis. Several imflammation cells appeared in the injured area of neurons. The number of neurons in the sample group that died by ischemia decreased. But, the number that died by apoptosis did not significantly change. Conclusions : The data shows that the effect of Chungpesagan-Tang Extracts on reversible forebrain ischemia in Sprague-Dawley rats is significant.

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        후냉천기(後冷泉期)의 세계(世界)

        오연환 전남대학교 인문학연구소 1996 용봉인문논총 Vol.25 No.-

        後冷泉朝とは後冷泉天皇の治世, つまりこの天皇が二一歲でせんそされた寬德二年(1045)から四四歲で崩御された治歷四年(1068)までの期間を指す. したがって後冷泉朝は十一世紀の中頃にあたる二十余年間である. この後冷泉朝は,いわゆる攝關時代の末期に該當する重要な時期だと思われるが, 歷史學者の間ではあまり注目されず, 攝關政治が最高潮にたつした道長時代の附錄のように取り扱われてきたうらみがある. その大きな理由は後冷泉朝がいちじよう·後いちじようの榮光のかげにかくれ, 後者のげんわくのもとに學者の注意からそれたこと, 後冷泉朝に關しては, 雜多な史料は豊富であっても, まとまった史料や詳しい歷史書が現在しないため, 硏究がやりにくく, 實態か容易に把握できなかったことに求められると思う. このため後冷泉朝の硏究は, ただできえ低調な平安時代の硏究の中でも最も停滯を極め, 大きな空白をなしている. 本論では後冷泉朝の歷史的意義について學界の關心をたかめ, 少しでもその硏究の振興に役立ちたという素志から後冷泉天皇を中心に政治·文學それから藤原氏の家系を考察硏究した. 藤原氏は六六九年中臣鎌足の功勞による藤原の姓を賜わったのに始まり, 北家がその嫡流の地位を占め道長が外戚體制をかためて, 攝關家の最盛期を策きあげ, 攝關の座を獨占しながら榮華を極めたが, その嫡子賴通にいたり, 皇子誕生のないことを機會に攝關外戚政治は終りをむかえ, 藤原攝關家の榮華にかげりが見え出した. しかし賴通が爲政者であるこの後冷泉天皇治世は, 一應安定した時期であった. 安穩な時勢, 政治的活動や陰謀がほとんど見られぬ波瀾のない政界, そして再建された國家財政を背景とし, さらいちじよう朝以來の高い文化的遺産を繼承して, 後冷泉朝の文化は宮廷を中心に攝關時代掉尾の華をさかせた. 官廷文化の中核をなしていた後冷泉天皇は歌才に勝れ, 笛も巧みで, いかにもこの時代らしい天皇であった. したがって後冷泉朝は歌合や物語合の全盛時代で, 樣ざまな花がさきみだれる眼もさめるような百花園きながらの景觀が見られる爛熟期としてとらえられる. かような開花には, 社會的地盤として攝關政治·莊園經濟という日本社會史上特殊の社會形態があり, それが女性の地位を高め, とくに表音文字としての가名が完成し, これによって純日本文を自由に文字化する道が聞け, 和歌や物語の隆盛が促進されたことを特筆しなければならない. 一方, 攝關の地位があくまで天皇の外戚であることによって生ずるものであってみれば, 攝關の權力が大きくなればなるほど, 後宮政策に力をつくさないわけにはいかず, それが女性(女房)文藝興隆の偉觀をもたらしたのである. かつ, この外戚政策は上層階級だけでな<, 社會一般の風習となり, したがって女性の社交上の地位は非常に高<, 敎養も惜しげもなくあたえられたから, 宮廷以外にも多くの女流文學者が輩出した. 攝關政治の發展とともに後宮文藝が榮え, 文壇の主流となり, 攝關政治の下降とともに男性の文藝によって代わられていったのは, 藤原氏の外戚12政策·文化政策·後宮政策からくる必然の結果で, 日本女性の文藝上のまたその社會的な地位が, 世界史的にみても非常な高さを示している. 道長と賴通を頂點とする藤原氏の攝關政治の獨自なすぐれた点といわなくてはならない. 日本文字としての가名で書かれた和歌や物語, 日記などは本質的に女性文學であり, 平安時代後半期の歷史的産物である藤原文化の文藝界での主流とみるべきである. 藤原文化のにない手も階級的に限られたものであったが, その文化的達成はすくぶる高く, 後世の異なる歷史的條件のもとにおいて, 異なる社會層によって, あるいは古典として享受され, あるいはその時代の文化生産のなかに素材または着想の種として活用されることにより, 長い生命を維持している. 後冷泉朝は最も藤原氏的な最後の樣相で, 時世の果てに生まれるべくして生まれた歷史的産物である. 攝關外戚政治性を完璧に備えていると言える悲運の後冷泉天皇, それから五十二年間政權の座にいた關白·賴通, この天皇と關白と後宮は相互一大血族集團の賴通的家族集團として共に, 藤原外戚政治の必然性から生まれるべくして生まれ出た歷史性の結果である. この結果の存在である後冷泉朝は時の天皇である後冷泉天皇と關白賴通が藤原氏攝關體制最後の城砦となり, その運命を共にしながら藤原氏世界の掉尾の華をきかせた. 後冷泉朝の世界は藤原氏像と言えられる.

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        도래인(渡來人)과 평안시대(平安時代) : 환무천황(桓武天皇)을 중심으로

        오연환 한국일어일문학회 1998 日語日文學硏究 Vol.33 No.1

        京都に千年の都をはじめて開き平安時代を開いたのは, 八世紀の末にあらわれた桓武天皇であった. 父は白壁王(光仁天皇)で天智天皇の皇孫であり, 母は高野新笠といい百濟渡來人子孫である. 「大化改新」の前後から表面化した天武系と天智系の皇位繼承をめぐる政界混亂の中で, 藤原式家の百川の心身を賭した力によって, 山部王は皇太子によう立され, 天皇に卽位(781)した桓武天皇は半世紀以上もつづいた佛敎政治を否定し, 律令制をたてなおすなど各種の政策を强力におしすすめたが, 一方皇位繼承にまつわる事件は, いくつも起こった. 永上川繼の謀反事件(782)も皇位繼承をめぐる天武系の天皇殺害陰謀事件で, 桓武天皇と天武天皇の血すじをひく者との暗鬪, 藤原式家と京家との對立, 藤原氏全體と大伴氏などとの對立が複雜にからみあって, 發生した事件である. この事件を最後として, 天武系である聖武天皇の血をひく者がすべて史上から消えてしまった. この永上川繼事件で功を立てた種繼は, 桓武天皇時代に入ってから渡來系では最初の參議となり, この上なく信任された. 百川 · 種繼ともに式家出身であり, 桓武天皇にとっては恩人と言えられる存在である. 山背國長岡京への遷都は種繼の建策によるのであるが, 天皇は皇太子時代から新部の構想を練っていた. 遷都のおもてだった理由は, 長岡の地が水陸交通上の要衝だからだというが, 平城京は, 七十年の首都としての歷史を經て, 寺院勢力をはじめ, 舊勢力の根づいた土地であり, 天武系の九代八人の天皇のもとにさかえた都であるそうしたものとの絶緣と, この地に本居をもつ新羅系の渡來氏族である秦氏との關係が最大の理由である. 秦氏は古くから山背國(京都府)を本居と定め, すぐれた土木技術をく使してこの地を開發し, 巨大な富を蓄積していた. 廣隆寺, 賀茂·松尾·稻荷の神社はみな秦氏寺であり秦氏神社である. 種繼の母がこの秦氏出身であり, 桓武天皇の母も長岡の近くにある交野に本居をもつ渡來氏族和氏出身である. 日本に律令制をしき, 國家體制を再編成した天智天皇の大事業を景仰していた桓武天皇は, 人心を一新して律令體制を振興しようとするには遷都であると悟り, 新都の造營が急ピッチですすめられていく中, 種繼に强い反感を抱く大伴·佐伯兩氏たちによる種繼暗殺事件が起こり, この計劃を皇太子も承知していたとのことで, 早良皇太子の地位ははくだつされた. 無實を主張した早良親王は絶食の末, 流刑の途中絶命した. この事件をとりまく人物たちは, 桓武天皇をはじめ同母實弟である早良皇太子, 万葉集に輝く大伴家持, 暗殺された種繼など渡來氏族たはその支流の人人である. 種繼が非業の死をとげてからも, 長岡京の造營は繼續して行なわれたが, しかしつぎつぎと天皇の身邊には, 不吉なできごとが相次いでおこり, 母親である皇太后·皇后·二人の夫人などの死亡と, 病弱で精神の安定を欠いている皇太子などは, すべて早良親王の怨靈によるたたりと言われた. 天皇はただちに早良親王の墓所を山陵と稱し, 崇道天皇という尊號おくるなどその靈をなぐさめたが, 終生この怨靈への恐怖からのがれることはできなかった. この怨靈は歷史上のもっとも重大な事件にかかわる平安京の造營を決意させ遷都を決斷させた. 七九四年(延曆十三年)十月, 天皇はいよいよ新宮に遷御し, 十一月, 新都のある山背國は今後山城國と稱し, 新都は平安京と稱するとの詔がだされた. 山背國は都が大和國(天武系の地)にあったからこそ名づけられた山の背の國, 山背であった. いまや都はその山背の中にある. その葛野の地は周圍山河にかこまれ, 自然の城をかたちづくる景勝の地である. 故に山城と改名し, ここにつくられる都は平安樂土でなければならない, だから平安京と名づけようとの背景には怨靈から脫れ出ようとする桓武天皇の切なる願いがこめられている. しかも古くから秦氏·百濟王氏の富み榮える本據地である, 桓武天皇は理想的な條件を備えている新都平安を「百王不易の都」として, その造都に注がれた의기입みや執念は, 征夷とともに生涯をかけておこなったニ大事業で, 桓武天皇の政治を象徵し, それは同時に日本の律令國家を象徵している. 天皇は强大な權力をにきり, 國家の威信をかけたニ大事業を遂行し, 政治の局面を轉換させることに成功したが, しかし時代の大きな流れを變えることはできなかった. 天皇とむすびつくより少數の特權貴族による權力の獨占, 國家財政のわくをはずれたかれらによる私的利潤の追求といった, 平安時代の貴族社會にみられる動きは, すでに桓武天皇の時代に胚胎しており, 805年二大事業の中止により, 律令國家體制の崩壞は, いよいよ進行して行った, 806年桓武天皇は七十でこの世を去った. 渡來人時代も去ったのである. 桓武天皇の最後の勅旨は, 諸國國分寺は每年 二月と八月に, 各七日間「金剛般若經」を轉續し, 實弟である怨靈となった早良親王のめい福を析れということであった. 京都は, 渡來系桓武天皇と秦氏を主とする渡來氏族たちの獻身的な協力できずきあげた都である. 渡來人たちはこの平安な樂土新天地で祖國に勝る百王不易の都を造ろうとしたのではなかったろうかと考えさせる, 故に京都文化は秦氏の掉尾の華で渡來文化であると言えられる. 渡來人についての諸問題を解明せずして, 平安時代の眞相を語ることはできないのである. 1895年(明治28年), 京都市左京區岡崎には, 平安てん都一千百年を記念して, 桓武天皇を祭神とする平安神宮が創祀された.

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        「 제중납언물어 」 의 성립과정을 중심으로

        오연환 한국일어일문학회 1979 日語日文學硏究 Vol.1 No.1

        The Tale of Chunagon Tsutsumi is the only extant collection of short stories with complicated forms and contents written in, the late Heian period (the eleventh century) or in the early Kamakura period (the twelfth century), while there are a number of extant long stories written in the corresponding periods. It is like contemporary collections of short stories in that it has a keen literary sense and a fresh literary flavor, and may be regarded as the first short stories in Japanese literature. Although it is affected by The Tale of Genji, one of the most salient masterpieces in Japanese literature, it pursues literary independence and possesses some literary elements not to be found in other Heian "tale" works, thus enjoying a high reputation as one of the peculiar literary works in Japanese literature. It contains ten stories and one titleless piece. Although we do not have any other Heian short stories, the existence of the Tale shows us that there might have been many other short stories in the Heian period. And the Tale provides us with many valuable clues for understanding the foundation on which Heian literature is built up and for studying the relationships between long stories and short stories in the Heian period. This article deals with the foundation on which The Tale of Chunagon Tsutsumi is built up, the process of its construction, its date of appearance, the order of stories, and the quality of "tale" stories. The date of appearance of stories in The Tale of Chunagon Tsutsumi is unknown, the only exception being Ausaka Koenu Gon Chunagon (Chunagon Gon's love). The author or compiler of the Tale and its date of compilation are unknown either. These uncertainties about authors or dates of Heian "tale" stories, however, may be regarded as understandable, considering that Heian "tale" stories began to be written to give comfort to others, and that they were regarded as jointly owned as necessary media for cooperation and peace between court ladies under late-Heian regency. The year 1055, the date of writing Ausaka Koenu Gon Chunagon, sheds, to some extent, light on the background of The Tale of Chunagon Tsutsumi. The year belongs to the golden age when Michiyori Fujihara, the Regent, exerted a powerful influence on almost all the aspects of Heian culture. The Fujiharas' power, however, began to decline owing to defects in the Manor system, the most fundamental financial resources for regency, and to failures in birth of princes by empresses from the Fujiharas. And yet the relationships between empresses and between court ladies were more peaceful than those in any other period of the Heian era, and, together with Emperor Goreisen's enthusiasm for literature and Yorimichi Fujihara's financial influences and human character, helped to build up and develop court literature of the late Heian period. The date of writing The Tale of Chunagon Tsutsumi seems to belong to the period between the late Heian period and the early Kamakura period in terms of the two points below. First, the Tale reflects emerging decadence and enjoyment resulting from the literary and political background, mentioned above. Secondly, it also reflects anti-monarchy and anti-aristocracy, the atmosphere at court at the end of the Heian period. The order of the contents of ten stories in the Tale is four seasons in their natural order, then an alternation of humor and sentiment, and finally aristocratic and anti-aristocratic. Each of the ten stories of the Tale was originally written as a separate book and later were combined in one book, the Tale. There are four extant texts of the Tale, each of which has different order of the ten stories contained in it. The order above is that of the popular text. Each of the stories makes a keen analysis of some phases of life, and has structure connected closely with other stories, and a simple style. The development of each story is of two kinds : one is a traditional kind of development in court literature in which the climax is expressed in poems ; the other is an ordinary kind of development in which the climax is expressed explanatorily and descriptively. The Tale of Chungon Tsutsumi with such marked individuality did not appear suddenly but appeared among beautiful blooms of rich and refined court literature in the late Heian period. It lives with declining regency and aristocracy and gradually moves the literary center of attention from antiquity to modernity, from the nobility to the common people, from womankind to mankind, thus holding a peculiar and significant position in Japanese literature.

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