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      • KCI등재

        聖徳太子伝의 四天王寺創建説과 法隆寺創建説

        마츠모토 신스케 한국일본언어문화학회 2010 일본언어문화 Vol.17 No.-

        本論文は、聖徳太子伝の有力な発信地であった四天王寺と法隆寺の創建説を、聖徳太子伝の文脈から捉えようといいう試みである。四天王寺と法隆寺の創建に関しては建築史⋅美術史の分野で「史実」をめぐる数多くの論考が積み重ねられてきたが、本論文では、「史実」を確定するのではなく、聖徳太子伝の世界において、寺院の創建がどのように「記述されたか」という点に焦点をあてて検討を進める。そもそも、この二つの寺は、日本書紀編纂の時点で既にその起源が曖昧になっており、それが、新たな創建伝承を生み出す母体となった。また、日本書紀や縁起類には、矛盾する内容も含まれており、それぞれの寺で独自の解釈が施されていた。特に、曖昧な資料しか遺されていなかった法隆寺では、自らの寺の起源を遡らせる言説が中世になって登場し、寺の権威を高めようとしていた。

      • KCI등재후보

        K-POPアイドルグループにおける日本人メンバー在籍の意義 - 所屬事務所の戰略、グループ內の文化交流、日本人ファンの受容を中心とした考察 -

        하야마 신스케 한국다문화* 디아스포라학회 2019 다문화와 디아스포라연구 Vol.14 No.-

        This paper discussed what Japanese members of K-POP idol groups bring to them from three perspectives: strategies of agencies, cultural exchange within groups, and acceptance of Japanese fans. We found that agencies aim to make the groups popular abroad by making it multinational. Especially in Japan, they are actively promoting the groups by cooperating with Japanese companies or sending information in Japanese. Japanese members often assimilate into Korean culture. However, when the groups visit Japan, they help other members act in Japan. Korean members understand how foreign members feel by being in a foreign country. In addition, families of Japanese members interact other members as ‘friendly people with a different culture’, and it leads to understanding of each other's culture. Japanese members also play the role as a bridge between K-POP and Japanese fans. Japanese members sometimes explain the broadcasting contents and Korean culture for Japanese fans during live broadcasting. The number of V LIVE subscribers reveals that these activities or the presence of Japanese members leads to the acquisition and settlement of Japanese fans. It is also remarkable that the Japanese who have approached K-POP in this way become interested in groups that have no Japanese members these days. 본고에서는 K-POP 아이돌그룹에 일본인 멤버가 있음의 의의에 대하여 ‘소속사의전략’, ‘그룹내 문화교류’, ‘일본인 팬들의 수용’이라는 세 가지 관점으로 고찰했다. 그 결과, 소속사는 그룹을 다국적화 시킴으로서 해외에서 인기를 얻으려고 하는데, 특히 일본에 있어서는 일본 기업과 제휴하거나 일본어로 정보발신하는 등 적극적인프로모션을 하고 있다고 확인되었다. K-POP 아이돌그룹에 속하는 일본인 멤버는한국 문화에 동화한 경우가 많지만, 그 그룹이 일본에서 활동하는 때에는 다른 멤버를 도와주는 장면이 보이었다. 또 일본 방문을 통하여 한국인 멤버는 외국인 멤버의마음이 이해되는 외에 그 가족들과의 사이에는 ‘이문화를 가지면서 친한 사람’ 끼리의 교류가 생기고, 서로의 문화 이해로 이어져 있었다. 게다가 일본인 멤버는K-POP과 일본인 팬들의 다리를 놓는 역할도 한다. 라이브 방송 때 방송 내용이나한국 문화를 설명하는 사례가 가끔 있었다. V LIVE 구독자수를 보아도 이런 활동이나 일본인 멤버가 존재함이 일본인 팬 획득·정착으로 이어지는 것이 밝혀졌다. 이렇게 해서 K-POP에 접근한 일본인들이 최근 일본인 멤버가 없는 그룹에도 관심을 가지게 되는 것도 주목되는 현상이다.

      • KCI등재

        四天王寺와 善光寺의 縁起에서 본 백제인식-불교 전래설을 중심으로-

        마츠모토 신스케 한국일어일문학회 2011 日語日文學硏究 Vol.77 No.2

        この論文では、日本で作成された仏教伝来をめぐる様々な資料を分析し、百済から伝来した仏像に対して強い関心が払われている点、そしてそれが四天王寺や善光寺の縁起に反映して、同時代に広まっていた三国史観とは異なる、百済からの伝来を強調する史観の展開につながっていたことを確認した。これらの資料で特に強調されているのは仏像の伝来で、これは、韓国や中国の仏教伝来説話にはあまり見られないか、見られたとしても日本の縁起のように大きな関心が払われていない部分であった。こうした日本の資料で特に注目されるのは、この仏像が「金銅」あるいは「純金」と形容されている点であった。仏教は黄金に光り輝く仏像で象徴されていたのだ。そしてそれは、百済から伝えられた仏像だったのである。

      • KCI등재

        四天王寺 創建과 移転説에 관한 緣起說話

        마츠모토 신스케 한국일어일문학회 2014 日語日文學硏究 Vol.90 No.2

        In this article, I discussed Temple History of Shitennoji-temple.『Nihonshoki(日本書紀)』describes a foundation of the Shitennoji-temple, but there is confusion inits descriptions.『Jougu Shoutokutaishi-den Hoketsuki(上宮聖徳太子伝補闕記)』insisted for the first time that the Shitennoji-temple had relocated from Tamatsukurito Arahaka and that Tamatsukuri had been near the shore. This description reflectedan old landscape -- Osaka Plain had been the sea (lake).『Shitennoji- Engi(四天王寺縁起)』and『Shoutokutaishi Denryaku(聖徳太子伝暦)』adopted the descriptionabout the relocation as an official opinion of the Shitennoji-temple. Then it becamewell recognized in other temples such as the Horyuji-temple(法隆寺), a monk ofwhich made use of the description. In the Middle Ages, some biographies aboutShoutokutaishi insisted that Shitennoji-temple was destroyed by a tsunami whichmade it relocate to Arahaka. この論文は、四天王寺の創建縁起に関する考察である。四天王寺の創建に関する記事は『日本書紀』に見られるが、二つの説があり内容に混乱が見られる。そして、現存する文献では『上宮聖徳太子伝補闕記』に初めて玉造から荒陵へと移転したという説が登場するが、そこには玉造が「岸」だと記されている。これはかつて大阪平野が海(湖)だった頃の景観を反映したものであろう。そして、この移転説は『四天王寺縁起』や『聖徳太子伝暦』に採用され、四天王寺の公式的な歴史として定着していき、さらには四天王寺以外でも知られるようになっていた。例えば法隆寺でもこれを前提とした議論が展開されており、中世の聖徳太子伝では、津波が玉造にあった四天王寺を破壊したため荒陵に移転したという説まで登場していた。

      • KCI등재
      • KCI등재

        橘寺의 역사적 변천과 聖徳太子 신앙

        마스모토 신스케 한국일어일문학회 2009 日語日文學硏究 Vol.69 No.2

        南都に位置する古代寺院のひとつ、橘寺は、創建の段階から、聖徳太子と深い関連を持っている。聖徳太子建立寺院の一つであり、勝鬘経講義の場としてもよく知られている。しかし、橘寺の歩んだ道は、決して平坦なものではなかった。火災が相次ぎ、特に中世から近世にかけては、ひどく荒廃していたようだ。しかし、そんな中でも、橘寺は、聖徳太子信仰、特に、平安時代に編纂された『聖徳太子伝暦』注釈を軸に、太子伝を伝える重要な場所でもあった。13世紀に活躍した学僧法空の手による『上宮太子拾遺記』や『聖徳太子平氏伝雑勘文』は、法隆寺の太子伝注釈に影響を与えた重要な典籍であった。また、この法空の注釈以外にも太子伝および学説を所有していたことが、『大乗院寺社雑事記』の記事や四天王寺本『太子伝』奥書などから知られる。更に、早稲田大学図書館蔵『橘寺聖徳太子伝』が、この四天王寺本と類似した内容をもっており、橘寺が法空の著作以外にも、太子伝を所有していた可能性がうかがえる。橘寺の太子信仰が南都の聖徳太子伝註釈に与えた影響の大きさは特筆すべきであり、本稿ではその一端を明らかにした。

      • KCI등재

        『太子傳宝物集』의 역사관 — 불법 전래 이전의 일본과 백제 인식 —

        마츠모토 신스케 한국일본사상사학회 2008 일본사상 Vol.0 No.15

        『太子伝宝物集』は、巻頭に神代の歴史を記す、いささか特異な聖徳太子伝である。神の問題を正面から取り上げているという点では、中世的な問題意識のもとで記された太子伝と言うことができるであろう。ただ、そこに描かれる神と仏の関係は、当然ではあるにしろ、仏の側に大きく傾いたものとなっている。仏法という新たな信仰を日本に定着させた太子は、無仏世界を教化した偉人として喧伝されていくのである。『太子伝宝物集』において興味深いのは、百済聖明王の役割を大きくとりあげている点である。日本を、仏法が存在しないために殺生が横行している国、と規定し、日本の衆生は、その殺生の罪により、「苦海」に沈むと規定する。そして、日本に仏法を伝えようとする聖明王が慈悲深い王と評価され、百済からの仏法伝来が強調される。印度・中国・日本という「三国史観」が一定の力を持っていた中世においては、いささか特異な歴史観を披露していると評価出来るだろう。 しかし、聖徳太子伝には、一つの大前提がある。日本仏法の起源は、聖徳太子だという問題だ。聖明王が日本に仏法を伝えたのは、聖徳太子誕生以前の、欽明天皇の時代。したがって、一度伝わった仏法が、弾圧され、それを克服する人物として聖徳太子が登場する、という流れになる。日本の中世おいては、神祇思想が様々な形で仏法と交錯していた。神仏習合が進むなか、仏の本来の姿が日本の神であったという、いわゆる本地垂迹説が、様々な形態をもって現れるようになる。そうした思想的背景の中でするされた『太子伝宝物集』は、聖徳太子が日本に誕生したことを、神道的な歴史観を取り込みつつ、仏法の優位性を再確認している、と評価できるだろう。

      • KCI등재

        古浄瑠璃『あたごの本地』와 日羅伝説

        마츠모토 신스케 한국일어일문학회 2013 日語日文學硏究 Vol.86 No.2

        In this article, I discussed the Old Joruri『Origin of Atago』as a study about narratives of Nichira whose name usually appeared in the biographies of Prince Shotoku. This Old Joruri featuring Nichira was made in early Edo period and was giving an explanation why he became worshipped as a Shogun-Zizo (勝軍地蔵) in Mt. Atago. Although the Shogun-Zizo is a Buddhist saint, it was believed as the God of war by many warriors (samurai) in the era of the syncretism of Shinto and Buddhism. This Old Joruri described Nichira as a God of war by emphasizing he was a superior warrior. Such a description for Nicira seems to be based on『Nihon Shoki (日本書紀)』, in which Nichira appears as a warrior in front of the Emperor of Japan, and at this point this Old Joruri differs from the biographies of Prince Shotoku in which Nichira was usually described as a monk. 本稿は、聖徳太子伝に登場する日羅という人物に関する説話·伝説に関する研究の一環として、古浄瑠璃『あたごの本地』を検討することを目的としている。同書は江戸時代初期の成立で、聖徳太子伝に登場する日羅を主人公にし、日羅が愛宕山の勝軍地蔵としてまつられるようになった経緯を解き明かしている。勝軍地蔵は仏教的存在であるが、神仏習合の時代においては軍神として武士に信仰されており、古浄瑠璃『あたごの本地』の日羅も、武人としての要素が強調されて描かれている。こうした日羅像は、僧侶で描かれることもあった聖徳太子伝の世界とは大きく異なっており、むしろ武人として天皇の前に登場したとする『日本書紀』を前提としている。

      • KCI등재

        ひらがな新聞『まいにちひらがなしんぶんし』記事文の言語的特徴 - 語彙の量的調査を中心に -

        하야마 신스케 일본어문학회 2018 일본어문학 Vol.80 No.-

        本研究では、ひらがなのみで書かれた新聞として1873年に創刊された 『まいにちひらがなしんぶんし』記事文の特徴を明らかにすることを目的とした。 従来の研究では、『まいにちひらがなしんぶんし』をはじめとして1873年に相次いで創刊されたひらがな新聞について「漢字をなくしても漢語が残ったまま」と指摘されていた。本研究では、はじめに語種比率を調査した結果、和語が80%弱を占めており、和語を中心として記事が書かれていることが確認できた。語の出現頻度の調査でも、高頻度で使用されている語はほとんどが和語であり、注釈がついた表現については、漢語から和語に言い換えて説明されている場合が多かった。このことから、『まいにちひらがなしんぶんし』は和語の使用を重視していたことがわかった。さらに、品詞比率の調査では、動詞と助詞の割合が先行研究で示された大衆向けの新聞での割合と一致しており、漢文体のようなかたい文体とは性質が異なることが確認された。 The purpose of this study is to clarify the characteristics of the Mainichi Hiragana Shinbunshi, published in 1873 as a newspaper written with only Hiragana. In previous research, it was pointed out that “hiragana newspapers certainly did not use Kanji, however, they still used words of Chinese origin”. The author surveyed the ratio of words of Japanese origin to foreign loanwords. As a result, words of Japanese origin accounted for approximately 80%, and it was confirmed that the articles were written mainly with words of Japanese origin. Even in the survey of the frequency of appearance of words, most of the words used at high frequency are words of Japanese origin. The author also discovered that in many cases they paraphrased the words from a word of Chinese origin into a word of Japanese origin when they gave a supplementary explanation about the difficult word. The results show the Mainichi hiragana shinbunshi emphasized the use of words of Japanese origin. In the survey of the part-of-speech ratio, the proportion of verbs and particle was similar to the proportion of popular newspapers that the previous study had shown. This property is different from that of stiff style like the kanbun-kundoku style.

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