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서기재(徐己才)(Seo, Gi-Jae) 일본어문학회 2012 일본어문학 Vol.57 No.-
戦後、児童文学が活発になった1970年代に、<戦争児童文学>が戦争を経験した作家達によってたくさん出版された。そのなかで児童文学作家のしかたしんは生まれてから17年間植民地朝鮮で生活し、敗戦後日本に引き揚げられて青年期を送った人である。彼は現代日本社会が再び敗戦前のナショナリズム志向にすすんでいくことに疑問をもち、会社をやめて自分の 体験を元にして児童文学を書き始めた。ここには戦争によって傷つけられた世代が自分のなかにある戦争について再び疑問を投げ掛けずにはいられない意識が内在されている。このような戦争と植民地を扱った児童文学に関する研究はまだ本格化されていない。 しかたは作品を通して、果たして民族とは何であろうかについて追求した。彼は近代に自分が体験した民族について説明する手段として児童期に現れるネオテニ-的な特殊性に着目した。しかたはむくげろモーゼルを通して、児童期のネオテニ-的特徴である、冒険にたいする積極的な態度、自分と他人の間に境界を作ろうとしない心理、他言語に対する拒否意識の低さ、持続的に学んでいこうとする態度、現実世界に安住せず理想的な社会への志向を表そうとした。このような作業は忘れかけられている、しかし忘れてはいけない近代を蘇らせる作用をし、現代の児童に民族の誠の意味について伝える媒介になってくれたと思われる。
서기재(徐己才)(Seo, Gi-Jae) 일본어문학회 2011 일본어문학 Vol.55 No.-
本論文は、日本の現代児童文学の中で戦争と植民地を描いた作品の誕生の文学的状況と実際経験をしている作家の作品群を紹介する。そしてその中で児童期を朝鮮で過ごした現代児童文学作家であるしかたしんの文学の原点になる朝鮮体験について追求する。今日、児童を相手にする出版物が流行だけを逐っていくなかで、漫画やアニメ、そして青少年たちの読み物の内容は戦いや戦争に関するものが多くなっている。このように児童は戦争の日常化に覆われて、それに対して無感覚になりがちである。ここで実際戦争を起こした側であった日本人の作家が児童を相手にして戦争と植民地期を語るというのは意味のあることである。日本の戦争文学は1970年代になって旺盛になる。それを書く作家のなかでは実際朝鮮や満州で児童期を過ごした人もいる。本論ではこのような戦争を語る作家達の作品を紹介し、そのなかで児童文学の本質について絶えず悩みながら植民地期の子供像を描いていったしかたしんという作家の植民地期の体験について考えている。そして彼のなかにあった〈民族〉が実体験としてどう現れるのかについて考察する。
서기재(徐己才)(Seo, Gi-Jae) 일본어문학회 2012 일본어문학 Vol.59 No.-
現代児童文学作家しかたしんは、1928年朝鮮で生まれて大学一年の時まで暮した在朝日本人であった。本論文は彼の代表作である国境をテクストとして、彼の‘児童期=戦争期’に対する記憶の方法的装置に注目する。ここには‘平和’に対する強い希求があり、‘生命’に対する尊重が前提された戦争への批判的な思考が作動している。しかたはテクストに登場する児童を通して自己と他人との障壁を取り壊したかった。また人間の価値の重要性をもとにする児童同士の共感帶を作ろうとした。それによって児童は絶えず習い、発展し、新しいものへ志向する‘成長する主体’として存在することを知らせたかった。ゆえにしかたは過去と現在を繋いでいく作業を国境を通して行っている。そして未来を担う児童に過去をみる‘眼差し’を獲得させようとした。また彼の真剣でありながらも興味深い児童小説を作っていこうという希望の中には‘自分らしい成長’という軸が配置されている。しかたは、植民地時代の日本が戦争と暴力を正当化し、死の場所へ子供を突き詰めたということを可視化する作業を行っている。それによって加害と被害の結果、戦争に対する誠の理解を伝えようとした。ここには現代の、過保護、物質的豊穣、あてない勉強、理由のない暴力の中で、自らどうすればいいか分からない子供達の現実への答えが潜んでいる。