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        특집논문 : 한국/학의 근대성과 로컬리티 ; 쥘 베른(Jules Verne)의 『십오소호걸(十五小豪傑)』의 번역 계보 -문화의 수용과 변용-

        사에구사도시카쓰 국제한국문학문화학회 2008 사이 Vol.4 No.-

        Jules VerneのDeux Ans de Vacances [二年間の休暇](1888)は英語、日本語、中國語に飜譯されたあと韓國語に飜譯された。本稿では最初に各言語による飜譯を對照してそれぞれの飜譯書がどの本をもとになされたかを考察した。その結果、まず英語に飜譯され出版されたAdrift in the Pacific とA Two Years` Vacationのうち後者を使って森田思軒が日本語飜譯 『十五少年』を出版し、その日本語譯を使ってさらに梁啓超が 『十五小豪傑』を出版したことが判明した。順次に飜譯されたこれらの飜譯書はいずれも使用した原典を抄譯し文章を改變、追加されてできたもので完全な飜譯とはいえぬが、日本や中國では多くの讀者を獲得し長い間にわたって讀まれ緖け大きな影響をおよぼした。韓國語の飜譯『十五小豪傑』は中國語の飜譯をさらに抄譯、改變を加えて作られたが部分的に日本語の飜譯も參照している。この本が話題になった事實は知られていない。さらに本稿ではそれぞれの飜譯の特色を誤譯や改變などをふくめ考察した。韓國語の飜譯については、日本および中國の飜譯書と對照することによりやや詳しく述べた。韓國の場合日本語の飜譯と異なり中國語の飜譯と共通な部分もあるが、その雙方とも異なり韓國獨特の部分もみられる。韓國語の飜譯は舊時代の物語本の文體でなされていているにもかかわらず飜譯に使われた單語には樣樣な工夫がなされ當時の韓國語の造語能力の可能性を示唆している。このことは外國の文化を受容することが必然的に受容者に何らかの作用を及ぼすことが考えられるがこれは今後の課題となりうる。

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        소화집(笑話集)과 화예(話藝) : 한국문학 이해를 위한 시론 韓國文學理解のための試論

        사에구사 도시카쓰 국어국문학회 2004 국어국문학 Vol.- No.136

        中國や日本では笑話集刊行の長い傳統があり,話藝の發生はその傳統と關係がある.一方,韓國にはその兩者が存在しない.韓國の漢文笑話における笑いの世界は,限られた狹い範圍內のものである.また,その笑いは,言語の技巧を驅使するといいよりは,題材自體の性格に依存する比重が大きい. 中國や日本における笑話集と話藝の關係を見ると,あるジャンルの發生と發達に關する示唆を得ることができるかもしれない.日本の笑話集の發生と發達は,中國のそれをそのまま受け入れたものではない.日本にはもともと獨子に發生した笑話集があったが,中國の笑話集の流入を契機に刺激を受けてその水準が向上した.それと同時に「讀む」ジャンルである笑話が,「聞く」ジャンルである話藝の發生へとつながった.このことは,笑話集と話藝というきわめて狹い世界で起った現象ではあるが,ここで私立つは,あるジャンルの發生と新たなジャンルの發生は,旣存のジャンルとの關係性と,異なる地域文化との關係性の中で行われるということを知ることができる.韓國の場合,「漫談」(mandam)が根を下ろすことができなかったのも,そのような理由によるのかもしれない.だが,關係性の不存のジャンルとの關係性,および異なる地域文化との關係性の不在の狀態の中で,考えれる可能性とは次の通りである.一つは,漢文笑話集の場合のように狹い範圍內で成就して再生産されるもおであり,もう一つは,旣存の文化現象と關係なく外部世界から完全に新しいものを導入したものである.このようなものも文化のもう一つの存在樣式と考えられる. 本稿では文學に關して本格的に考察できなかったが,文學とこのようなジャンルとの關連自體はそれほど重要性を持たない.それよりも重要なのはその關連の樣相であろう.中國では,老舍のように「相聲」(Xiangsheng)にも關心を持ち,臺本を書き,自らも演技する作家がいた.だからと言って「相聲」というジャンル自體や小說の價値が高くなるわけではない. 近代文學との關連で言うならば,日本の場合,二葉亭四迷が三遊亭円朝の話藝を參考にして「浮雲」の文體を創造したという話しはあまりにも有名である.しかし,そのような直接的な關係以外にも,あるジャンルの周邊に明らかに新たなジャンルとして區別されるものが存在する時,互いに相手を意識しながら自らの水準を高める可能性があるということは重要であろう.反對に,周邊にそのようなジャンルが存在しなければ,もともと他のジャンルに屬していた性格との境界性が曖昧となり,作品が洗練されたものでなくなる可能性が生じるのである.開化期の小說の中で,日本の「落伍」(rakugo)を用いたものがあるという事實は,このことと關連があるのではないかと思われる.

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