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    기와로 본 신라 王京의 변천 연구 = The Study on the Silla's Royal Capital[新羅 王京] focusing on the Roof-tiles[瓦]

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    다국어 초록 (Multilingual Abstract) kakao i 다국어 번역

    本稿はこれまで蓄積された瓦の編年成果を土台とし、新羅王京の景観を理解する目的から作成した。従って、今まで提出された発掘報告と関連文献の検討、関連する研究成果の整理をその分析方法とした。
    まず、本稿での主要な内容は次の通りである。
    2章では新羅における瓦文化の成立と出土様相について検討した。 新羅で最古式の瓦は 5世紀末に比定される。この瓦のデザインは従来、高句麗影響説が強く台頭していたが、最近、中国側の資料報告が活発化するに従って南朝瓦と深い親縁性があることが指摘された。このような中国南朝様式が成立する背景には当時、新羅が高句麗の干渉を排除していく過程で百済と友好関係を結ぶことによって可能であったと思われる。
    また、このような最古式瓦の出土地として蘿井-月城-仁王洞寺址がある。特に蘿井は発掘様相(月城と同時に修葺及び重修)を土台に、文献の中に見られる奈乙神宮である可能性が高いことを指摘し、仁旺洞寺址の場合、現在の位置、最古式瓦の出土と月城、蘿井と同時に修葺及び重修などを根拠に南堂である可能性を提起した。
    そして6世紀のはじめ頃、月城と鷄林の間を流れる北川の治水によって、月城以北にかなり広い空き地が確保された。これにより、ここに瓦建築が建ち始めた。瓦建築の流入に従い、墓域は慶州盆地を取り囲む山地へと移動することとなる。古新羅瓦の出土地を現在の慶州地域航空写真に表示した結果、そのほとんどが北川以南地域に収斂している。
    3章では統一期文武王代以降、王京の整備を人口圧と関連し理解した。特に統一期に入り、(正確には679年)瓦の製作様相が前代とは確然と変化する。すなわち、瓦紋様の多様化、あらし胎土と打捺作業の短縮などをあげることができる。特にあらし胎土(硅砂を含む)は高温焼成時の不良率を抑え、打捺作業の短縮は製作期日を縮める。このような不良率の低下と製作工程の短縮は文武王代における大規模な土木工事と密接な関連があることを指摘している。そしてこの時、王京のおおよその輪郭が設定されたことが見られるが、東の普門寺、北の北宮苑池などから679年に編年することのできる瓦の出土をその証拠として提示した。
    また、注目されるのは文武王当代の王京について空間の分割意識が四方八方に見られる。24方に細分化されていることも、このような王京整備の結果と密接な関連があるものとした。以後、神文王(新村)、孝昭王(南市、西市の設置)、聖徳王(白骨の埋藏)などの記事は逐次的に王京内部が整備されていく姿を見せるものであると理解した。このように整備された王京の空間は大体、東:普門寺、西;西川、東南;四天王寺-望徳寺、西南:鮑石亭北便、北:鶏林高校-北宮苑池などをあげることができる。そしてこのような王京整備の主要原因は人口圧をあげることができる。王京への人口流入はいくつかの経路を想定することができるが、亡国の貴族の徒民、統一戦争の有功者である地方人、捕虜の流入などを論ずることができる。
    4章では具体的に坊の構造をきちんと理解することによって、新羅王京の面積に坊の数の復元を試みた。現在、慶州の王京遺跡には皇龍寺東便のS1E1遺跡と東川洞 7B/L遺跡から一つの坊と推定される方形遺構が発掘された。よってこの内部に密集した瓦葺建物を土台に王京の人口数を推算した。特に18家と報告されたS1E1(6世紀末の瓦が見られる)の場合、最終段階の建物の数であるが。よってこの數値程度の家が坊を構成していたものと見た。そしてS1E1と殆ど同時期に成立した東川洞7B/L遺跡の場合、S1E1より面積が小さいため、およそ8家以下が一つの坊を構成していたはずである。すなわち、坊ごとに家の数からその差違がみられる。よって、両者の比較を通じて人口数の推算はより安定性を得ることができると思われる。主要基準は北川の以南が以北がである。そして、補助資料として『三國史記』元聖王2年條の記事の検討を通じて、当時(15斗=1碩)王京人を相対として二ヵ月に渡り配給された穀食量は9月33,240碩と10月33,000碩であるが、これを聖德王代(20斗=1碩) 1日、人ひとりに配給された穀食量3升に置き換えて、9月が55,400名、10月を55,000名と推算した。
    また、現在の北川以北地域と以南地域を分離して検討する必要があるが、これについてはS1E1と東川洞7B/Lの規格それぞれに差異がみられるからである。従って、すべての状況を勘案して、1家にだいたい10人、平均するとひとつの坊におよそ18家程度があったことから、大体S1E1形坊(北川以南)の境遇10人×18家×708個坊=127,440人程度が居住していたと推定して算定すると、また東川洞7B/L形坊(北川以北)は10人×8家また10家×450個坊=36,000~45,000人、そして殘存200餘坊を平均家戶15家で計算すれば10×15家×200=30,000人である。従って、王京人口はおよそ193,440~202,440人(食糧受給者=極貧者層 5万 5千名)と推算した。
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    本稿はこれまで蓄積された瓦の編年成果を土台とし、新羅王京の景観を理解する目的から作成した。従って、今まで提出された発掘報告と関連文献の&...

    本稿はこれまで蓄積された瓦の編年成果を土台とし、新羅王京の景観を理解する目的から作成した。従って、今まで提出された発掘報告と関連文献の検討、関連する研究成果の整理をその分析方法とした。
    まず、本稿での主要な内容は次の通りである。
    2章では新羅における瓦文化の成立と出土様相について検討した。 新羅で最古式の瓦は 5世紀末に比定される。この瓦のデザインは従来、高句麗影響説が強く台頭していたが、最近、中国側の資料報告が活発化するに従って南朝瓦と深い親縁性があることが指摘された。このような中国南朝様式が成立する背景には当時、新羅が高句麗の干渉を排除していく過程で百済と友好関係を結ぶことによって可能であったと思われる。
    また、このような最古式瓦の出土地として蘿井-月城-仁王洞寺址がある。特に蘿井は発掘様相(月城と同時に修葺及び重修)を土台に、文献の中に見られる奈乙神宮である可能性が高いことを指摘し、仁旺洞寺址の場合、現在の位置、最古式瓦の出土と月城、蘿井と同時に修葺及び重修などを根拠に南堂である可能性を提起した。
    そして6世紀のはじめ頃、月城と鷄林の間を流れる北川の治水によって、月城以北にかなり広い空き地が確保された。これにより、ここに瓦建築が建ち始めた。瓦建築の流入に従い、墓域は慶州盆地を取り囲む山地へと移動することとなる。古新羅瓦の出土地を現在の慶州地域航空写真に表示した結果、そのほとんどが北川以南地域に収斂している。
    3章では統一期文武王代以降、王京の整備を人口圧と関連し理解した。特に統一期に入り、(正確には679年)瓦の製作様相が前代とは確然と変化する。すなわち、瓦紋様の多様化、あらし胎土と打捺作業の短縮などをあげることができる。特にあらし胎土(硅砂を含む)は高温焼成時の不良率を抑え、打捺作業の短縮は製作期日を縮める。このような不良率の低下と製作工程の短縮は文武王代における大規模な土木工事と密接な関連があることを指摘している。そしてこの時、王京のおおよその輪郭が設定されたことが見られるが、東の普門寺、北の北宮苑池などから679年に編年することのできる瓦の出土をその証拠として提示した。
    また、注目されるのは文武王当代の王京について空間の分割意識が四方八方に見られる。24方に細分化されていることも、このような王京整備の結果と密接な関連があるものとした。以後、神文王(新村)、孝昭王(南市、西市の設置)、聖徳王(白骨の埋藏)などの記事は逐次的に王京内部が整備されていく姿を見せるものであると理解した。このように整備された王京の空間は大体、東:普門寺、西;西川、東南;四天王寺-望徳寺、西南:鮑石亭北便、北:鶏林高校-北宮苑池などをあげることができる。そしてこのような王京整備の主要原因は人口圧をあげることができる。王京への人口流入はいくつかの経路を想定することができるが、亡国の貴族の徒民、統一戦争の有功者である地方人、捕虜の流入などを論ずることができる。
    4章では具体的に坊の構造をきちんと理解することによって、新羅王京の面積に坊の数の復元を試みた。現在、慶州の王京遺跡には皇龍寺東便のS1E1遺跡と東川洞 7B/L遺跡から一つの坊と推定される方形遺構が発掘された。よってこの内部に密集した瓦葺建物を土台に王京の人口数を推算した。特に18家と報告されたS1E1(6世紀末の瓦が見られる)の場合、最終段階の建物の数であるが。よってこの數値程度の家が坊を構成していたものと見た。そしてS1E1と殆ど同時期に成立した東川洞7B/L遺跡の場合、S1E1より面積が小さいため、およそ8家以下が一つの坊を構成していたはずである。すなわち、坊ごとに家の数からその差違がみられる。よって、両者の比較を通じて人口数の推算はより安定性を得ることができると思われる。主要基準は北川の以南が以北がである。そして、補助資料として『三國史記』元聖王2年條の記事の検討を通じて、当時(15斗=1碩)王京人を相対として二ヵ月に渡り配給された穀食量は9月33,240碩と10月33,000碩であるが、これを聖德王代(20斗=1碩) 1日、人ひとりに配給された穀食量3升に置き換えて、9月が55,400名、10月を55,000名と推算した。
    また、現在の北川以北地域と以南地域を分離して検討する必要があるが、これについてはS1E1と東川洞7B/Lの規格それぞれに差異がみられるからである。従って、すべての状況を勘案して、1家にだいたい10人、平均するとひとつの坊におよそ18家程度があったことから、大体S1E1形坊(北川以南)の境遇10人×18家×708個坊=127,440人程度が居住していたと推定して算定すると、また東川洞7B/L形坊(北川以北)は10人×8家また10家×450個坊=36,000~45,000人、そして殘存200餘坊を平均家戶15家で計算すれば10×15家×200=30,000人である。従って、王京人口はおよそ193,440~202,440人(食糧受給者=極貧者層 5万 5千名)と推算した。

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    다국어 초록 (Multilingual Abstract) kakao i 다국어 번역

    This paper's aim is to research the look of Silla's Royal Capital[新羅 王京] on the base of the chronological records of roof-tiles[瓦]. The method of analysis is based on the excavation reports, related texts, and related studies up to the present. The main contents of this paper are as follows.
    In chapter 2, the construction and distribution of the roof-tile's culture during the Silla Dynasty[新羅] period is examined. The oldest roof-tiles are presumed to be at the end of 5th century. However, the design of this roof-tile was originally thought to be affected by the dynasty of Gogurye[高句麗], recently the closely similarity to roof-tiles of the South Dynasty in China[南朝] was reported by the active Chinese researches. It seems that the background of this similarity resulted from the Silla's boycott against Gogurye Dynasty, which led the friendly relationship with the Dynasty of Baek-jae[百濟].
    The Luo-jing(a shrine)[蘿井], the Yue-cheng(a palace)[月城], and the Ren-wang dong si[仁王洞寺址] are an excavation site of this oldest roof-tiles in the silla period. As of the excavation process, Luo-jing is probably presumed to be Nai-yi Shrine[奈乙神宮] and the Ren-wang dong si could be also regarded as a Nan-tang[南堂] in the light of its location and the excavated oldest roof-tiles.
    In the early 6th century, when the flood control construction was built on the Stream of North which flowed between the Yue-cheng and the Ji-lin[鷄林], the considerable vacant land was created on the north region of the Yue-cheng. At this vacant land, a lot of roof-tiled buildings were born. These constructions caused the boundaries of a grave to move into the mountain area surrounding Gyeongju basin. The achived result of marking the excavation sites of roof-tiles in the primary Silla period on the aerial photograph of Gyeongju area shows that these sites are converged on the south region of the Stream of North.
    In chapter 3, the maintenance of Royal Capital during the unified Silla rhe reign of the King Wen-wu[文武王] is supposedly related to the overpopulation. During the unified Silla, exactly in 679, the manufacturing aspect of roof-tiles had been definitely distinguished the previous period. For example, the variation of roof-tile style, the use of rough clay, and the shortening of pounding process were mainly changed and distinguished from the past. Specially, At these period the rough clay containing silica was improved to reduce error rates and the shortening of pounding process also reduced the manufacturing period. The reduction of error rates and manufacturing period made possible to lead a lot of public and constructible at the reign of the king Wen-wu. In this period, the formation of the general outlook of Royal Capital seemed to be completed, because the excavated roof-tiles from the Pu-men si[普門寺]and the Bei gong yuan chi[北宮苑池]was proved by the chronological records of 679 year.
    Moreover, the remarkable thing is that the space partition of Royal Capital has subdivided from eight directions to twenty-four directions, which was closely connected with the result of the maintenance of Royal Capital. Later, the construction of Xin-cun[新村]of the King Shen-wen[神文王], Nan-shi[南市]/Xi-shi[西市] of the King Xiao-zhao[孝昭王], and then exclusion Burial Site of the King Sheng-de[聖德王] shows the maintaining process of the inner part of Royal Capital. This well-maintained and typical structores of Royal Capital is composed of the Pu-men si[普門寺](east); Seo cheon(west); Si tian wang si[四天王寺] - Wang de si[望德寺](east south); the north of Pao shi ting[鮑石亭](west south); and Ji-lin high school[鷄林高敎]-Bei gong yuan chi[北宮苑池](north). One of the main reasons for this maintenance of Royal Capital is the overpopulation. The influx of the population into Royal Capital could be traced in many ways, such as the influx of refugees of ruined countries, of local men of merits, of captives, and so on.
    In chapter 4, the number of rooms in the Silla's Royal Capital could be presumably measured by understanding the structure of buildings. The block-shaped relics were excavated recently at the excavation sites in S1E1 the rincinity of Huang-long si[皇龍寺] and in 7B/L of Dong-chuan dong[東川洞] around the Gyeongju area. Therefore the population of Royal Capital could be measured through the medium of these clustered roof-tiled buildings. The research of S1E1 shows that a block consists of about 18 families, and 7B/L consisting of less 8 families. According to『San guo shi ji[三國史記]』, the amount of grain rationing to Silla's people was 33,240 Seok in September and 33,000 Seok in October at the reigh the King of Yuan-sheng[元聖王]. If this amount of grain is replaced with grain per person, the population of Royal Capital can be measured 55,400 people in September and 55,000 people in October.
    It suggest to me that it need to distinguish between the northern area and southern of the Stream of North. Considering all this aspects (5 people per family and 20 families per block), the population approximately could be calculated 193,440~202,440 people (excluding 55,000 civilians and slaves).
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    This paper's aim is to research the look of Silla's Royal Capital[新羅 王京] on the base of the chronological records of roof-tiles[瓦]. The method of analysis is based on the excavation reports, related texts, and related studies up to the prese...

    This paper's aim is to research the look of Silla's Royal Capital[新羅 王京] on the base of the chronological records of roof-tiles[瓦]. The method of analysis is based on the excavation reports, related texts, and related studies up to the present. The main contents of this paper are as follows.
    In chapter 2, the construction and distribution of the roof-tile's culture during the Silla Dynasty[新羅] period is examined. The oldest roof-tiles are presumed to be at the end of 5th century. However, the design of this roof-tile was originally thought to be affected by the dynasty of Gogurye[高句麗], recently the closely similarity to roof-tiles of the South Dynasty in China[南朝] was reported by the active Chinese researches. It seems that the background of this similarity resulted from the Silla's boycott against Gogurye Dynasty, which led the friendly relationship with the Dynasty of Baek-jae[百濟].
    The Luo-jing(a shrine)[蘿井], the Yue-cheng(a palace)[月城], and the Ren-wang dong si[仁王洞寺址] are an excavation site of this oldest roof-tiles in the silla period. As of the excavation process, Luo-jing is probably presumed to be Nai-yi Shrine[奈乙神宮] and the Ren-wang dong si could be also regarded as a Nan-tang[南堂] in the light of its location and the excavated oldest roof-tiles.
    In the early 6th century, when the flood control construction was built on the Stream of North which flowed between the Yue-cheng and the Ji-lin[鷄林], the considerable vacant land was created on the north region of the Yue-cheng. At this vacant land, a lot of roof-tiled buildings were born. These constructions caused the boundaries of a grave to move into the mountain area surrounding Gyeongju basin. The achived result of marking the excavation sites of roof-tiles in the primary Silla period on the aerial photograph of Gyeongju area shows that these sites are converged on the south region of the Stream of North.
    In chapter 3, the maintenance of Royal Capital during the unified Silla rhe reign of the King Wen-wu[文武王] is supposedly related to the overpopulation. During the unified Silla, exactly in 679, the manufacturing aspect of roof-tiles had been definitely distinguished the previous period. For example, the variation of roof-tile style, the use of rough clay, and the shortening of pounding process were mainly changed and distinguished from the past. Specially, At these period the rough clay containing silica was improved to reduce error rates and the shortening of pounding process also reduced the manufacturing period. The reduction of error rates and manufacturing period made possible to lead a lot of public and constructible at the reign of the king Wen-wu. In this period, the formation of the general outlook of Royal Capital seemed to be completed, because the excavated roof-tiles from the Pu-men si[普門寺]and the Bei gong yuan chi[北宮苑池]was proved by the chronological records of 679 year.
    Moreover, the remarkable thing is that the space partition of Royal Capital has subdivided from eight directions to twenty-four directions, which was closely connected with the result of the maintenance of Royal Capital. Later, the construction of Xin-cun[新村]of the King Shen-wen[神文王], Nan-shi[南市]/Xi-shi[西市] of the King Xiao-zhao[孝昭王], and then exclusion Burial Site of the King Sheng-de[聖德王] shows the maintaining process of the inner part of Royal Capital. This well-maintained and typical structores of Royal Capital is composed of the Pu-men si[普門寺](east); Seo cheon(west); Si tian wang si[四天王寺] - Wang de si[望德寺](east south); the north of Pao shi ting[鮑石亭](west south); and Ji-lin high school[鷄林高敎]-Bei gong yuan chi[北宮苑池](north). One of the main reasons for this maintenance of Royal Capital is the overpopulation. The influx of the population into Royal Capital could be traced in many ways, such as the influx of refugees of ruined countries, of local men of merits, of captives, and so on.
    In chapter 4, the number of rooms in the Silla's Royal Capital could be presumably measured by understanding the structure of buildings. The block-shaped relics were excavated recently at the excavation sites in S1E1 the rincinity of Huang-long si[皇龍寺] and in 7B/L of Dong-chuan dong[東川洞] around the Gyeongju area. Therefore the population of Royal Capital could be measured through the medium of these clustered roof-tiled buildings. The research of S1E1 shows that a block consists of about 18 families, and 7B/L consisting of less 8 families. According to『San guo shi ji[三國史記]』, the amount of grain rationing to Silla's people was 33,240 Seok in September and 33,000 Seok in October at the reigh the King of Yuan-sheng[元聖王]. If this amount of grain is replaced with grain per person, the population of Royal Capital can be measured 55,400 people in September and 55,000 people in October.
    It suggest to me that it need to distinguish between the northern area and southern of the Stream of North. Considering all this aspects (5 people per family and 20 families per block), the population approximately could be calculated 193,440~202,440 people (excluding 55,000 civilians and slaves).

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    국문 초록 (Abstract) kakao i 다국어 번역

    이 글은 지금까지 축적된 기와의 편년성과를 토대로 신라 왕경의 경관 변천을 검토한 것이다. 그리고 최근 발굴성과가 제출된 왕경유적을 통해 그 내부를 구성한 坊의 구조나 거주인구에 대한 수치의 대략을 이해할 수 있었다.
    우선 본 글의 주요 내용은 다음과 같다.
    2장에서는 신라에서 기와문화의 개시와 출토양상에 대해 살펴보았다. 신라에서 最古式의 기와는 5세기말로 비정된다. 이 기와의 디자인에 대해 종래 고구려 영향설이 강력하게 대두되었는데, 최근 중국측 자료가 활발하게 보고됨에 따라 남조기와와 강한 친연성이 있음을 엿 볼 수 있었다. 이런 중국 남조 양식이 성립될 수 있었던 배경에는 당시 신라가 고구려의 간섭을 배제해 나가는 과정에서 백제와 우호관계를 맺음으로서 가능하였다고 보았다. 또한 이런 最古式 기와의 출토지로서 나정-월성-인왕동사지가 있다. 특히 나정의 경우 발굴양상(월성과 동시 葺瓦 및 重修)을 토대로 문헌 속에 보이는 奈乙神宮일 가능성이 높다는 것을 지적하였고, 인왕동사지의 경우 현재의 위치, 最古式기와의 출토(월성, 나정과 동시 葺瓦 및 重修) 등을 근거로 南堂일 가능성을 제기하였다.
    그리고 6세기 초 무렵 월성과 계림 사이를 통과하던 북천이 치수됨에 따라, 월성 이북에 상당한 空地가 확보되었다. 그 결과 이곳에 기와 건물들이 들어서기 시작하면서 묘역이 경주분지를 둘러싼 산지로 이동하게 되었다. 古新羅 기와의 출토지를 현재의 경주지역 항공사진에 지점을 표시해 본 결과 대부분이 북천이남지역으로 수렴되었다.
    3장에서는 통일기 文武王대 이후 왕경의 정비를 인구압과 관련하여 이해해 보았다. 특히 통일기에 들어서면서-정확하게는 679년- 기와의 제작양상이 前代와는 확연히 변화한다. 즉 기와문양의 다양화, 거친 태토, 타날 작업의 단축 등을 들 수 있다. 특히 거친태토(규사 포함)는 소성과정에서 불량률을 줄여주며, 타날작업의 단축은 제작기일을 줄인다. 이런 불량률 저하와 제작공정의 단축은, 문무왕대 대규모 토목공사와 관련된 기와의 대규모 소비와 밀접한 관련이 있음을 지적하였다. 그리고 이때 왕경의 대체적인 윤곽이 설정되는 것으로 보았는데, 동으로 보문사, 북으로 북궁 원지 등지에서 679년으로 편년할 수 있는 기와가 출토된 것을 그 증거로 제시하였다.
    또한 주목되는 것은 문무왕 當代 왕경에 대한 공간의 분할 인식이 四方八方에서 24方으로 세분화되는 것이 이런 왕경정비의 결과와 밀접한 관련이 있는 것으로 보았다. 이후 신문왕(新村), 효소왕(南市, 西市의 설치), 성덕왕(白骨의 매장) 등의 기사는 왕경 내부가 逐次的으로 정비되어 가는 모습을 보여주는 것으로 이해하였다. 이렇게 정비된 왕경의 공간은 대체적으로 동; 普門寺, 서; 西川, 동남; 四天王寺-望德寺, 서남; 鮑石亭 북편, 북; 鷄林高校-北宮苑池 등을 들 수 있을 것 같다. 그리고 이런 왕경정비의 주요 원인은 인구압을 들 수 있다. 왕경으로의 인구유입은 여러 경로를 상정해 볼 수 있는데, 망국의 귀족들의 徙民, 통일전쟁의 유공자로서 지방인, 포로의 유입 등을 거론할 수 있다.
    4장에서는 방의 성림시기와 구조, 그리고 이를 토대로 왕경의 인구수를 추산해 보았다. 그 결과 다음과 같은 결론을 얻을 수 있었다. 우선 황룡사 동편의 S1E1과 동천동 7B/L이 7세기말 무렵 坊制로 통제된다는 것, 기와의 공급처가 동일 생산지일 가능성이 높다는 것, 坊의 改築 시기가 비슷하다는 것 등을 밝혀 보았다. 이러한 유사점은 신라 왕경의 운영과 관련하여 시사하는 바가 크다고 생각된다.
    이어 S1E1의 경우 최종단계에서는 명확하게 담장으로 구획된 건물, 대략 5棟이 한 가를 이루고 있다. 그리고 구획된 담장이 18家를 이루고 있으므로 독립된 坊의 家로 존중되어야 한다. 한편 동천동 7B/L의 경우 발굴보고서는 발간되지 않았지만, 지금까지 보고된 현장설명회 자료와 경주대 박물관에서 인터넷상에 제공하고 있는 유물에 근거하였다. 후대 교란이 심한 상태에서 발굴이 진행되었지만, 건물지 유구는 대략 30~40여동이 나온 것으로 보인다. 그리고 간헐적으로 잔존하고 있는 담장유구를 근거로 한다면 대략 3~4棟이 한 家를 이룬 것으로 보인다. 따라서 8~10家정도가 한 방을 이룬 것으로 볼 수 있다.
    이를 바탕으로 신라 촌락문서에 의거해서 한 가의 인구를 10명으로 잡고 왕경의 인구를 추산해 보면, 북천 이남지역에 S1E1만한 크기 坊은 708개 정도 나오므로, 이 지역은 최대 127,440명 정도가 거주한 것으로 보인다. 그리고 동천동 7B/L만한 방은 북천이북에 대략 450여개가 나오는데, 앞서 공식을 대입해 보면 약 36,000~45,000명 정도가 거주한 것으로 볼 수 있다. 그러면 대략 1360坊에서 누락된 200여 坊에 평균치를 15家로 잡는다 하더라도 30,000명 정도 밖에는 되지 않는다. 결국 왕경의 인구는 193,440~202,440명 남짓 정도로 밖에는 추산되지 않는다.
    결론적으로 신라의 기와문화는 백제와 남조의 영향을 강하게 받으면서 시작되었다. 이렇게 성립된 고신라 기와는 서남산과 월성 주변지역에 한정되어 있었다. 그러다가 통일기 이후 북천 이북지역으로 광범위하게 확산되어 가는데, 이런 양상은 왕경의 정비와도 밀접한 관련을 가진다. 이렇게 도시계획과 아울러 보급된 기와는 최종적으로 『三國史記』 헌강왕 6년, 민간에 이르기까지 지붕을 기와로 잇는 모습이 문헌에 남게 된 것으로 보인다.
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    이 글은 지금까지 축적된 기와의 편년성과를 토대로 신라 왕경의 경관 변천을 검토한 것이다. 그리고 최근 발굴성과가 제출된 왕경유적을 통해 그 내부를 구성한 坊의 구조나 거주인구에 대...

    이 글은 지금까지 축적된 기와의 편년성과를 토대로 신라 왕경의 경관 변천을 검토한 것이다. 그리고 최근 발굴성과가 제출된 왕경유적을 통해 그 내부를 구성한 坊의 구조나 거주인구에 대한 수치의 대략을 이해할 수 있었다.
    우선 본 글의 주요 내용은 다음과 같다.
    2장에서는 신라에서 기와문화의 개시와 출토양상에 대해 살펴보았다. 신라에서 最古式의 기와는 5세기말로 비정된다. 이 기와의 디자인에 대해 종래 고구려 영향설이 강력하게 대두되었는데, 최근 중국측 자료가 활발하게 보고됨에 따라 남조기와와 강한 친연성이 있음을 엿 볼 수 있었다. 이런 중국 남조 양식이 성립될 수 있었던 배경에는 당시 신라가 고구려의 간섭을 배제해 나가는 과정에서 백제와 우호관계를 맺음으로서 가능하였다고 보았다. 또한 이런 最古式 기와의 출토지로서 나정-월성-인왕동사지가 있다. 특히 나정의 경우 발굴양상(월성과 동시 葺瓦 및 重修)을 토대로 문헌 속에 보이는 奈乙神宮일 가능성이 높다는 것을 지적하였고, 인왕동사지의 경우 현재의 위치, 最古式기와의 출토(월성, 나정과 동시 葺瓦 및 重修) 등을 근거로 南堂일 가능성을 제기하였다.
    그리고 6세기 초 무렵 월성과 계림 사이를 통과하던 북천이 치수됨에 따라, 월성 이북에 상당한 空地가 확보되었다. 그 결과 이곳에 기와 건물들이 들어서기 시작하면서 묘역이 경주분지를 둘러싼 산지로 이동하게 되었다. 古新羅 기와의 출토지를 현재의 경주지역 항공사진에 지점을 표시해 본 결과 대부분이 북천이남지역으로 수렴되었다.
    3장에서는 통일기 文武王대 이후 왕경의 정비를 인구압과 관련하여 이해해 보았다. 특히 통일기에 들어서면서-정확하게는 679년- 기와의 제작양상이 前代와는 확연히 변화한다. 즉 기와문양의 다양화, 거친 태토, 타날 작업의 단축 등을 들 수 있다. 특히 거친태토(규사 포함)는 소성과정에서 불량률을 줄여주며, 타날작업의 단축은 제작기일을 줄인다. 이런 불량률 저하와 제작공정의 단축은, 문무왕대 대규모 토목공사와 관련된 기와의 대규모 소비와 밀접한 관련이 있음을 지적하였다. 그리고 이때 왕경의 대체적인 윤곽이 설정되는 것으로 보았는데, 동으로 보문사, 북으로 북궁 원지 등지에서 679년으로 편년할 수 있는 기와가 출토된 것을 그 증거로 제시하였다.
    또한 주목되는 것은 문무왕 當代 왕경에 대한 공간의 분할 인식이 四方八方에서 24方으로 세분화되는 것이 이런 왕경정비의 결과와 밀접한 관련이 있는 것으로 보았다. 이후 신문왕(新村), 효소왕(南市, 西市의 설치), 성덕왕(白骨의 매장) 등의 기사는 왕경 내부가 逐次的으로 정비되어 가는 모습을 보여주는 것으로 이해하였다. 이렇게 정비된 왕경의 공간은 대체적으로 동; 普門寺, 서; 西川, 동남; 四天王寺-望德寺, 서남; 鮑石亭 북편, 북; 鷄林高校-北宮苑池 등을 들 수 있을 것 같다. 그리고 이런 왕경정비의 주요 원인은 인구압을 들 수 있다. 왕경으로의 인구유입은 여러 경로를 상정해 볼 수 있는데, 망국의 귀족들의 徙民, 통일전쟁의 유공자로서 지방인, 포로의 유입 등을 거론할 수 있다.
    4장에서는 방의 성림시기와 구조, 그리고 이를 토대로 왕경의 인구수를 추산해 보았다. 그 결과 다음과 같은 결론을 얻을 수 있었다. 우선 황룡사 동편의 S1E1과 동천동 7B/L이 7세기말 무렵 坊制로 통제된다는 것, 기와의 공급처가 동일 생산지일 가능성이 높다는 것, 坊의 改築 시기가 비슷하다는 것 등을 밝혀 보았다. 이러한 유사점은 신라 왕경의 운영과 관련하여 시사하는 바가 크다고 생각된다.
    이어 S1E1의 경우 최종단계에서는 명확하게 담장으로 구획된 건물, 대략 5棟이 한 가를 이루고 있다. 그리고 구획된 담장이 18家를 이루고 있으므로 독립된 坊의 家로 존중되어야 한다. 한편 동천동 7B/L의 경우 발굴보고서는 발간되지 않았지만, 지금까지 보고된 현장설명회 자료와 경주대 박물관에서 인터넷상에 제공하고 있는 유물에 근거하였다. 후대 교란이 심한 상태에서 발굴이 진행되었지만, 건물지 유구는 대략 30~40여동이 나온 것으로 보인다. 그리고 간헐적으로 잔존하고 있는 담장유구를 근거로 한다면 대략 3~4棟이 한 家를 이룬 것으로 보인다. 따라서 8~10家정도가 한 방을 이룬 것으로 볼 수 있다.
    이를 바탕으로 신라 촌락문서에 의거해서 한 가의 인구를 10명으로 잡고 왕경의 인구를 추산해 보면, 북천 이남지역에 S1E1만한 크기 坊은 708개 정도 나오므로, 이 지역은 최대 127,440명 정도가 거주한 것으로 보인다. 그리고 동천동 7B/L만한 방은 북천이북에 대략 450여개가 나오는데, 앞서 공식을 대입해 보면 약 36,000~45,000명 정도가 거주한 것으로 볼 수 있다. 그러면 대략 1360坊에서 누락된 200여 坊에 평균치를 15家로 잡는다 하더라도 30,000명 정도 밖에는 되지 않는다. 결국 왕경의 인구는 193,440~202,440명 남짓 정도로 밖에는 추산되지 않는다.
    결론적으로 신라의 기와문화는 백제와 남조의 영향을 강하게 받으면서 시작되었다. 이렇게 성립된 고신라 기와는 서남산과 월성 주변지역에 한정되어 있었다. 그러다가 통일기 이후 북천 이북지역으로 광범위하게 확산되어 가는데, 이런 양상은 왕경의 정비와도 밀접한 관련을 가진다. 이렇게 도시계획과 아울러 보급된 기와는 최종적으로 『三國史記』 헌강왕 6년, 민간에 이르기까지 지붕을 기와로 잇는 모습이 문헌에 남게 된 것으로 보인다.

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    목차 (Table of Contents)

    • Ⅰ. 序論 = 1
    • Ⅱ. 기와 건물의 등장 = 7
    • 1. 古新羅 기와의 검토 = 7
    • 2. 古新羅 기와의 출토지점 = 17
    • Ⅲ. 왕경의 정비와 기와 = 33
    • Ⅰ. 序論 = 1
    • Ⅱ. 기와 건물의 등장 = 7
    • 1. 古新羅 기와의 검토 = 7
    • 2. 古新羅 기와의 출토지점 = 17
    • Ⅲ. 왕경의 정비와 기와 = 33
    • 1. 문무왕대 기와와 왕경 = 33
    • 1) 통일기 기와양식의 등장 = 33
    • 2) 왕경의 정비와 경계 = 40
    • 2. 人口壓과 왕경정비 = 56
    • Ⅳ. 坊의 구조와 왕경의 인구 = 59
    • 1. 坊의 성립시기 = 59
    • 2. 坊의 분석 = 62
    • 3. 왕경의 인구 推算 = 67
    • Ⅴ. 結論 = 73
    • 參考文獻 = 77
    • ABSTRACT = 87
    • 日文抄錄 = 91
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