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동양철학과 서양철학의 대화 —철학의 중심은 어디에도 있다/없다.—
이광래 한국일본사상사학회 2011 일본사상 Vol.0 No.20
1960年、フランスのガリマール(Gallimard)出版社が「世界の哲学者たち」を出版するに際してメルロー=ポンティに依頼した序文のタイトルは「どこにでもあり、どこにもない」であった。彼はそこで「哲学の中心はどこにでもあるが、その周辺はどこにもない」と述べ、東洋哲学をはじめとする哲学的地域性に対する自身の立場を表明した。つまり彼は、西洋哲学も原理的には西洋という一つの地域で展開された地方的思想の一つに過ぎないと見るのである。それにもかかわらず、今日多くの西洋人たちが東洋思想よりも西洋哲学が普遍性を持っていると考えるのは、それが他の文化と思想を評価する義務と権威を付与する普遍的真理という概念を発明したと信じているからである。また多くの人は、そのことによって西洋哲学が、特殊性や地方性から脱し、他の文化と思想を測定する基準計としての普遍性を持っているとも信じている。しかし、メルロー=ポンティの考えは異なる。なぜなら彼は、西洋哲学が東洋哲学の基準計としての普遍性を持ったという事実を、未だ客観的に証明し得なかったと考えるからである。西洋がそうするためには、何よりも自身の唯一絶対の意味を、事実に依拠して立証しなければならないというのである。彼は「哲学者というものは須らく、良心に恥じることなく自身の思考の絶対的根源性を誇示したり、世界的所有権や概念の厳密性を詐称したりしてはならない」と主張する。結局彼は、危機に直面した西洋の知性は、その克服の端緒を東洋思想に求めるべきであると忠告する。彼によれば「東洋の文明は西洋のように哲学的、経済的装備を持ってはいないが、少なくとも一種の教育的価値を持っている。かえってわれわれは、非常に遠く離れている多様な人間性から『実存の諸領域』を再び発見することになる。……東洋と西洋の関係は、決して無知/知、非哲学/哲学の関係ではない。それはもっと微妙な関係である。東洋の立場からいえば、そこには一切の予見(anticipations)、すなわち早熟(prématurations)があるかも知れない」というのである。実際、世界の哲学は、東西洋が互いに決して同一ではないという事実だけでも豊かになることができる。東西洋の哲学が互いを映す反射鏡(speculum)の役目をするだけでも、盲目と偏見を防ぐことができる。しかし、独断の世紀を超えて哲学にゆだねられた課題は、差異を認めることとか、尊重するとかいった消極的な和解ではない。真の和解のために必要なものは、差別性を認め、強調することではなく、それらの積極的な綜合と調和である。しかも、今日のように多元化した世界に迫りくる思想と哲学の新しい波(ニュー・ウェーブ)は、西洋の理性と東洋の直感が和合する「創造的総合」の波でなければならない。しかし、すでにデジタル・テクノロジーによって「距離の消滅」(disappearance of distance)がなされた未来の現実では、西洋の理性的優位を強調するための空間的二分法も無意味化するであろう。未来の生活世界は東西洋の空間的区分ではなく、アナログ世界とデジタル世界という二分法に置き換えられるかも知れない。そのために、未来の哲学者たちは東洋と西洋を問わず、今日の哲学者が、アナログ生活構造から強制的にデジタル生活構造へと追い立てられることでこ ...