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      • KCI등재

        南北分断の状況と在日朝鮮人の文学

        호테이 토시히로 동국대학교 일본학연구소 2016 일본학 Vol.42 No.-

        After the war, Korean-Japanese literatures can be divided into the following three eras: 1. Until the independence day of Korea from the day the loss of Japan. 2. Until ‘disperse of private war’ in 1955 from ‘Joseon war.’ 3. After forming ‘The pro-Pyeongyang federation of Korean residents in Japan.’ In the first era, Korean-Japanese remained in Japan wrote some amateur literatures, such as Inminmunwha, Corea-munye, Jokukmunkak, Josen, Jamin, Joreonmunwha, Gunkuk in order to celebrate the independence of their mother land, Korea. And then nationalistic newspapers Hebangsunmun, Joseon-sinbo were published. On Joseon-sinbo, Kim Dal-soo argued that literatures written in Japanese language by Korean authors should be considered Korean literatures rather than Japanese literatures. Moreover, Minju-Joseon was published. On 1947, February 20th, the artists from both Jochongnyeon and the Federation of Korean Residents in Japan formed Korean-Japanes federation of culture association together. On 1948, January17th, Korean-Japanes literary society which was formed by uniting each association shared some parts of the code of conduct as Joseon writers alliance which was formed on 1945, December 13th. These show the Korean-Japanese humanities scholars’ tendency in the era. In the second era, Korean war occurred in 1950, May. As the result of this, Nam-ro party led by Park Heon-young got arrested. After that incident, bias took place in the media, Nodongsinmun and Minju-Joseon; they didn’t fully cover the process of Park Heon-young’s case in the court. On the other hand, Motherland defense national committee’s Sin-Joseon published by Korean Resident in society fully covered the case in 1953 and 1954. Nothing is certain, but their intension of the full coverage which had been exposed Korean-Japanese people can be speculated that they wanted people from Nam-ro party to give up their thought. In the third era, forming Jochongnyeon in 1955 was a turning point in the ideology of Korean-Japanese activists. Korean-Japanese people started to be recognized as citizens from the republic, thus, their identity as residents in Japan got weakened; they started to feel more connected to their own country. As a result, this incident caused a big impact on the literature. After that, betrayal and commercial papers are becoming problems to the humanities scholars. 戦後初期の在日朝鮮人文学を考える時、時間幅を少し広く捉えてみる必要があり、それらは大きく、(1)日本の敗戦から朝鮮戦争まで、(2)朝鮮戦争から1955年の民戦解散まで、(3)1955年の在日本朝鮮人総連合会(総連)結成以後、の3つの時期に分けられる。 (1)の時期には、祖国の解放を迎えて、日本に残ることになった在日朝鮮人たちの中から創作を試みる者たちが現われ始め、『人民文化』、『高麗文芸』、『祖国文学』、『朝鮮』、『白民』、『朝連文化』、『建国』などの同人誌が発行された。そこへ『解放新聞』、『朝鮮新報』といった民族新聞が発刊され、『朝鮮新報』紙上では日本語創作を巡って、朝鮮文学たり得ないとする魚塘と、日本語創作としての朝鮮文学創作の可能性を主張する金達寿の言語論争が起こりもした。さらに『民主朝鮮』が発行され、1947年2月20日には、朝連側文化人と民団側文化人が共同で文化活動を行なおうと在日朝鮮文化団体連合会(略称・文団連)が結成された。こうした中、1948年1月17日に各団体が大同団結して結成された「在日朝鮮文学会」の綱領は、1945年12月13日に南朝鮮で結成された統一団体「朝鮮文学同盟」の合同声明の条項と、5つの条項中、4つまでが同じであった。当時の在日朝鮮人文学者たちの文学傾向、志向、総意がどこにあったかをうかがわせるものといえる。 (2)の時期には、1950年6月には朝鮮戦争が起こるが、その結果として、共和国では朴憲永率いる南労党系が粛清された。この後遺症は深いものがあったが、資料面で注目されるのは、1953年の李承燁や林和たちの裁判・粛清と、1955年に処刑されることになる朴憲永たちの粛清に対する報道の差である。前者については、『労働新聞』や『民主朝鮮』紙上を使って、裁判の様子や判決文を大々的に報道しているが、後者については、この両紙ではほとんど報道がなされていない。一方、在日朝鮮人社会で発行されていた、祖国防衛全国委員会の機関紙『新朝鮮(새조선)』紙では、1953年と1954年に大々的に報道されている。このことが何を意味するか、軽々に断定はできないが、在日朝鮮人に対して、このように知らせることによって、ひょっとして残っていたかもしれない南労党系の人物たちに対する思いをあきらめさせるために、再度大きく報じたのではないか、ということが推測される。 (3)の時期、1955年の「総連」の結成は、在日朝鮮人運動史上、大きな転換点となる出来事であった。在日朝鮮人が共和国の「公民」とされ、「在日性」が比較的に弱まり、「本国志向」が強まった。そしてこれは文学面にも大きな影響をもたらした。これ以降、文学者たちの組織からの離反と、商業誌への登場が大きな問題点となってくる。

      • KCI등재

        해방 후 재일 한국인 문학의 형성과 전개 : 1945년~60년대 초를 중심으로

        布袋敏博 서울大學校 人文學硏究所 2002 人文論叢 Vol.47 No.-

        戰後初期の在日本朝鮮人文學を考える時, 「解放直後」という 捉え方では充分でなく, 少し時間的に幅廣くとってみる必要がある. そのように考えると, そわらは大きく, (1) 日本の敗戰から朝鮮戰爭まで, (2)朝鮮戰爭から1955年の民戰解散まで, (3) 1955年の在日本朝鮮人總連合會 (總連) 結成以後, の3っの時期に分けることができる. 旣存の硏究は, ほとんど單行本を中心にしたもので, 取り扱われる雜誌はせい 『民主朝鮮』 程度であった. ところが近年, 當時の新聞·雜誌類が多く復刻きれ, より細かく當時の文學狀況を知ることができるようになった. そこで, 本考では, 上記の時代區分に從って, 雜誌を中心に戰後在日本朝鮮人文學の流れを追ってみた. 戰後の在日本朝鮮人文學は, まず膽寫版の同人誌から始まるが, その初期の頃のものは, 「全體的に水準が低く, 思想的にも雜多で意識も不透明なままのものが混在している狀態」. であった, そうしたところへ,『解放新聞』『朝鮮新報』とこった民族新聞が發刊きれ, 新たな局面を迎えることになった. これら新聞紙上にも創作·評論なとが揭載きれるが, 中でも『解放新聞』紙上で繰り廣げられた, 魚塘と金達壽による日本語をめぐる論爭は, 重要な問題を提起している. (1)のこの時期には, 『高麗文藝』『朝鮮詩』『朝鮮文化』『朝鮮文藝』『ウリ文學』など多くの雜誌が發刊きれたが, その中で, 金達壽らによる『民主朝鮮』は, 1946年4月から1950年7月までの長期間にれたって總33號を干行したもので, その意義は非常に大きい. また1946年に刊行きれた『解放詩選集』は, 在日朝鮮人作品集ではなく, 當時の南朝鮮の詩人たちのアンンロジ一であるが, その當時の在日本朝鮮人文學者たちの文學傾向を示すものとじて興味探く, またいわめる朝鮮文學史的にも意味のあるものである. (2)の時期には, 許南麒の個人詩『麥』, 金石範らの『朝鮮論評, 』金時鐘らの『ヂンダレ』などが刊行きれた. (3)の1955年の總連の結成は, 在日朝鮮人運動史上, 大きな轉換點となるものであるが, 文學史的にも大きな影響をもたらしっ. これ以降は, 文學者たちの組織からの離反と, 商業誌への登場が大きな問題点となってくる. そうした中で, この時期に『鷄林』『文學藝術』『朝鮮文化』『朝陽』 といった 雜誌が發行きれている. このうち『文學藝術』には, 後に組織を離れる在日朝鮮人文學者が多く關れっているが, 中でも金石範の, 後の 『火山島』 の原型ともいえる, 朝鮮語による『火山島』が揭載きれいるのが注目きれる. 一方, 戰前, 金史良と竝んで日本で活躍していた張赫宙は, こうしたいれゆる在日朝鮮人文學者たちの動きとは別に, 獨自の行動を見せ. 彼は日本にとどまリ, 日本に歸化し野口赫宙とし文筆活動を續ける. 張は, 日本の文壇內にあって, もはやほとんど朝鮮人としての役割を終えていたかに見えるが, そうした彼も, 朝鮮戰爭が期こると, 戰地に赴いて, 『鳴呼朝鮮』 を書き, 「故國の悲劇を慟哭するしかない」心情を吐露した. そして興味探いことに, 1956年に東京創元社から干行きれた『世界少年少女文學全集』の朝鮮編では, 金南天の 「ムジャリ」安懷南の「謙虛」, 李泰俊の「孫巨富」と「月夜」を, 兒童用に書き直して收綠した. 作者はいずれも解放後, 越北した作家たちで, 當時, 共和國でその行跡がたどれくなリ, 韓國ではタブ一ときれていた文學者であった. 1956年という時期に, こうした文學者たちの作品をあえて取リ上げているところに, ほとんど日本人化したと見られていた張赫宙の複雜な內面風景を伺うことができるようである.

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