本稿は 「今昔物語集」の話と芥川龍之介の小 「羅生門」、そして明の映 「羅生門」を取り上げ、意識化されていくテキストとしてのその過程を考察した論である。これらの三つの 「羅...
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本稿は 「今昔物語集」の話と芥川龍之介の小 「羅生門」、そして明の映 「羅生門」を取り上げ、意識化されていくテキストとしてのその過程を考察した論である。これらの三つの 「羅...
本稿は 「今昔物語集」の話と芥川龍之介の小 「羅生門」、そして明の映 「羅生門」を取り上げ、意識化されていくテキストとしてのその過程を考察した論である。これらの三つの 「羅生門」には代の文ジャンルと時代性が窺える好例のテキストである。それは人と姦をめぐってのこれらの三つの 「羅生門」の評がそれぞれの時代と文テキストの中でよくあらわれているからである。「今昔物語集」の話には現代でのみと姦との評が異なっている。すなわち人のほうはつよく非難されているが、姦についての評はなされていない。芥川龍之介の 「羅生門」(=「薮 の中」) にはみと姦ともにつよく非難するのみならずそれを殺人事件化され、それをめぐっての人間のエゴイズムが語られる、多な人間君像があらわれている。そして明の「羅生門」には人、姦、エゴイズムは相的であり多な判の可能性を開いている、ボストモダニズム的な人間の意識が提示され人間の'嘘'についての多な角度の分析が行われている。したがって本稿ではこの三つの「羅生門」を人、姦、嘘、エゴイズムという四つのキワドを取り上げ、順次的にどのように受容され化されているかを意識化されていくテキストとして考察しようと試みた。
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