百済は『三国史記』によると、漢城時代の4世紀後半に仏教を受け入れ、寺院を建立した。その後に遷都した公州、扶余では多くの寺院跡が建てられた。そのうち、扶余で建立された寺...

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小笠原好彦 (明治大學)
2011
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800
KCI등재
학술저널
31-57(27쪽)
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百済は『三国史記』によると、漢城時代の4世紀後半に仏教を受け入れ、寺院を建立した。その後に遷都した公州、扶余では多くの寺院跡が建てられた。そのうち、扶余で建立された寺...
百済は『三国史記』によると、漢城時代の4世紀後半に仏教を受け入れ、寺院を建立した。その後に遷都した公州、扶余では多くの寺院跡が建てられた。そのうち、扶余で建立された寺院は、これまで定林寺址、軍守里廃寺、金剛寺址、扶蘇山廃寺などが発掘され、一塔一金堂式の伽藍が知られてきた。近年は、陵山里廃寺、王興寺址が発掘され、新たな知見が得られている。
陵山里廃寺は、一塔一金堂式の伽藍で、塔の舎利龕(しゃりがん)に昌王13年(567)に昌王が塔を建てたことが記されていた。王興寺は『三国史記』に武王35(634)に建てられたとする一塔一金堂式の伽藍であったが、塔の舎利函に昌王が24年(577)に建てたことが記されていた。また、武王(600-641)が益山に建てた弥勒寺は、中院、西院、東院を東西に配した三塔三金堂式の伽藍が見つかっている。
一方の新羅は、5世紀前半に仏教が伝えられた。553年に慶州の月城の東北に皇龍寺が建てられ、善徳女王の654に九重塔が完成した。皇龍寺は東西に三金堂を配した一塔三金堂式をなしていた。
また、朝鮮半島を統一した文武王のとき、狼山の南に四天王寺が建てられた。この寺院は一対の木塔を配した双塔式伽藍である。この木塔の基壇には、四天王を表現した大型の画塼が貼りめぐらされていた。また、文武王は慶州から東に離れた海岸に、倭の侵攻を抑えるため、一対の三層石塔を配した双塔式伽藍を造営した。この伽藍は神文王2年(682)に完成した。この感恩寺の伽藍は、日本の本薬師寺の伽藍として導入されている。
さて、日本は百済から6世紀前半に仏教が伝えられた。本格的な寺院造営は、崇峻元年(588)、蘇我馬子が飛鳥寺を造営するため、百済から建築工、露盤工、造瓦工、画工らを招来してすすめられた。1960 ‧ 61年、飛鳥寺は発掘され、一塔三金堂式の伽藍が検出された。この伽藍は、高句麗の清岩里廃寺、上五里廃寺と共通しており、このような伽藍が6世紀後半に百済にも存在したかが問題になった。
昌王が造営した陵山里廃寺と王興寺では、一塔一金堂式が検出されているように、6世紀後半の百済では、一塔一金堂式のみが建てられ、高句麗式伽藍は存在しない可能性が高い。また、三金堂を配した益山弥勒寺では、塔と金堂をセットとして三院を配していることも重視される。
飛鳥寺を造営した蘇我馬子は、584年に百済から鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒石仏をもたらした際に、これを譲り受けた。推古13年(605)、蘇我馬子は丈六金銅仏と繍仏(しゅうぶつ)を製作し、翌年に完成し、これらを飛鳥寺の金堂に安置した。平安末に大江親通(おおえちかみち)が編んだ『七大寺巡礼私記』には、鹿深臣がもたらした弥勒石仏が飛鳥寺の東堂に安置されていたと記されている。このことは、蘇我馬子は、飛鳥寺の造営に際し、三体の仏像を安置することを計画し、百済にはない一塔三金堂式伽藍を採用したものとみなされる。
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