本稿は、庚申惨変の犠牲者家族の一例として、被害学校の特性、庚申惨変の展開、国家報勲処の功勲宣揚の問題を、三つの観点から詳しく探ってきた成果である。 一つ目に、庚申惨変の...

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2020
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200
학술저널
133-204(72쪽)
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本稿は、庚申惨変の犠牲者家族の一例として、被害学校の特性、庚申惨変の展開、国家報勲処の功勲宣揚の問題を、三つの観点から詳しく探ってきた成果である。 一つ目に、庚申惨変の...
本稿は、庚申惨変の犠牲者家族の一例として、被害学校の特性、庚申惨変の展開、国家報勲処の功勲宣揚の問題を、三つの観点から詳しく探ってきた成果である。
一つ目に、庚申惨変の時に放火により全焼し廃校になった培達学校は、1918年3月に西間島の通化県の半拉背に定着した平北、定州人らが、同胞二世の民族教育を目的に設立された。設立者は趙庸錫、金基甸、李時説、承震の4人である。
核心人物である趙庸錫は白川趙氏の進士入格者として多くの家産を整理し、一家を連れて亡命した後、同郷の金基善兄弟と共に学校を経営し、西間島の東昌学校、興東学校の教師出身である李時説と東昌学校の教師出身である承震は、教師の経験を生かし教育を分担した。 唯一の咸鏡道出身の姜華麟も教師として合流した。1918年基準の培達学校の教職員の平均年齢は29.8歳で、50代の最高齢者である趙庸錫が校長を務め、20代の姜華麟と李時説が教師として学生たちを教え、他の者たちは会計と庶務として補助する構造であった。
培達学校では民族教育を通して青少年らの抗日意識を鼓舞し、国恥日や開天節など、民族的な行事を開催した。1919年には西間島に拡散した3·1運動に参加し、新興武官学校とも交流しながら、在満同胞らに「義勇軍になって二千万の民族を救い、三千里の領土を回復せよ」という内容の書かれた檄文を発した。同年三月、教師である李時説と姜華麟が独立運動に身を投じ、それぞれ西路軍政署と新興武官学校へ発つ本稿は、庚申惨変の犠牲者家族の一例として、被害学校の特性、庚申惨変の展開、国家報勲処の功勲宣揚の問題を、三つの観点から詳しく探ってきた成果である。
一つ目に、庚申惨変の時に放火により全焼し廃校になった培達学校は、1918年3月に西間島の通化県の半拉背に定着した平北、定州人らが、同胞二世の民族教育を目的に設立された。設立者は趙庸錫、金基甸、李時説、承震の4人である。
核心人物である趙庸錫は白川趙氏の進士入格者として多くの家産を整理し、一家を連れて亡命した後、同郷の金基善兄弟と共に学校を経営し、西間島の東昌学校、興東学校の教師出身である李時説と東昌学校の教師出身である承震は、教師の経験を生かし教育を分担した。 唯一の咸鏡道出身の姜華麟も教師として合流した。1918年基準の培達学校の教職員の平均年齢は29.8歳で、50代の最高齢者である趙庸錫が校長を務め、20代の姜華麟と李時説が教師として学生たちを教え、他の者たちは会計と庶務として補助する構造であった。
培達学校では民族教育を通して青少年らの抗日意識を鼓舞し、国恥日や開天節など、民族的な行事を開催した。1919年には西間島に拡散した3·1運動に参加し、新興武官学校とも交流しながら、在満同胞らに「義勇軍になって二千万の民族を救い、三千里の領土を回復せよ」という内容の書かれた檄文を発した。同年三月、教師である李時説と姜華麟が独立運動に身を投じ、それぞれ西路軍政署と新興武官学校へ発つことになり、教師陣に空白が生じた。
二つ目に、1920年10月23日、西間島地域の反日志士と民族学校に対する日帝の二次掃討作戦が、中国の張作霖の承認(10/17)の下で開始された。西間島に出兵した日本軍の指揮システムは、関東軍16師団の麾下として遼寧省の鉄嶺にいた歩兵第19連隊長の杉山大佐と歩兵一個大隊、そして吉林省の公州嶺にいた目中佐の騎兵第20連隊が主導した。16師団長の志岐守治は、日本の西南端に位置する鹿児島出身で、杉山正之は佐賀県出身だった。この二人はそれぞれ陸士1期と4期で、先輩後輩の間柄だった。
出兵した彼らは中国軍や巡警と共に日中合同で反日人士討伐に乗り出した。杉山歩兵大隊は10月23日、現地の不逞鮮人及びそれに加担た馬賊らに脅威を与える目的として東側へのデモ行進を開始し、目騎兵隊は南側への行軍を開始したが、通化県に向かって西側と北側で挟み撃ち作戦を展開した。
ここで親日派である崔昌圭が率いる満州保民会が興京県に出兵した関東軍を歓迎し、積極的に協力し合い、反日人士逮捕に全面的に乗り出した。崔昌圭と27人の調査員たちは、10月28日から杉山の命令を受けた四人が先発隊として出発し、残りの者は共に10月31日の天長節祝日の祝賀会に同席してから、翌日の11月1日から11月30日までの1ヵ月間、興京県から寛甸県に至るまで約500人を逮捕した。最終的に選ばれた81人が関東軍によって惨殺された。_独立新聞_の西間島で殺害された者は計1,323人だったが、日本側の記録より16倍多い数値であり、誇張された側面がある。
興京県のキリスト教系列の三成学校に続き、通化県の培逹学校は保民会の二番目の標的になった。11月2日、半拉背では培達学校の校長である趙庸錫と教頭の金基善、教師の趙龍珠の三人、そして現地の韓族会の反日志士である四人(承昞均、承大彦、金基畯、崔賛化)が逮捕され、翌日20km連行され英額佈鎮で惨殺された。半拉背の七人の犠牲者は、培達学校近くの裾野に埋められたが、趙庸錫と趙龍珠の遺体は再び故郷に移された後に葬られ、五人の遺体は現地に埋められたまま歳月が流れた。
関東軍側では西間島のデモ行進作戦の成功が全面的に保民会のおかげ(反日志士及び学校選別指目)であることを明らかにした。したがって、西間島の地域での庚申惨変の加害者は、日帝関東軍だけではなく、満州保民会そして張作霖とその麾下である中国人官憲も共犯である。
三つ目に、国家報勲処では、半拉背の七人の犠牲者に対して1977年から1998年までの間に、建国勲章愛国章を追叙し礼遇を尽くした。さらに1993年、海外安葬独立有功者実態調査団を立ち上げ、七人の犠牲者の墓所を確認し、1994年から2007年にかけて、六人の遺骨を三度にわたり、国立大田顕忠院に奉還した。当然のことにしても、1977年から2007年までの報勲処の30年間の努力は高く評価されるべきである。
しかし、1996年に中国現地で反日志士之墓を建て、墓所を改装する際、_独立新聞_(1921年1月21日付)の記録によると、趙龍珠の代わりに趙東鎬という異名で墓碑と墓所が復元された。報勲処では、趙東鎬=趙龍洙=趙龍珠である事実を緻密に検証せず、2007年に遺骨(?)が奉還されるというハプニングが起き、現在に至る。趙東鎬、すなわち趙龍珠(洙)の遺骨は故郷に移された後に葬られ、初めから存在しなかった。一次の史料と系譜分析を綿密に行わなかったために生じた事態である。
次に、報勲処の漢字誤読による1991年の趙庸錫に対する重複褒賞の件は、論者の請願提起として2017年に整理された。
最後に、趙龍珠(洙)志士に渡されなかった勲章も、褒賞されてから19年ぶりに論者によって遺族に受け渡された。しかし、その過程は険しいもので、正確な情報を提供した際、報勲処は一言“官僚的”な態度を一貫し、五年以上も費やしてきた論者の努力と証拠資料を意図的に無視し、反対に問題が解決した際には、まるで自分たちの成果であるように報道するといった反則的な行動を見せた。誤った報道が学位__論文に誤って引用されることさえあった。
2020年の庚申惨変が100周年を迎え、平北、定州人らが設立した通化県培達学校と半拉背の七人の犠牲者に対する追慕は意味深いものである。そして、被害事例にとどまらず、民族教育者である趙庸錫一家から新興武官学校の生徒一名(趙泰淵)と韓国光復軍一名(趙東潤=趙志英)を輩出した栄誉ある子孫たちの歴史にも、スポットライトを当てなければならない。
一方、親日団体の満州保民会と日本関東軍に対しても忘れずに引き続き追跡し、究明作業を続けていかなければならない。 重複褒賞の問題など、依然として報勲処内部で決着がついていない庚申惨変の犠牲者に対する誤った歴史を正していく作業も継続していかなければならないだろう。