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        近世,近代における中國俗文學的形式の受容

        공수 고려대학교 일본연구센터 2010 일본연구 Vol.14 No.-

        本稿では、日本の文學にそのまま取り入れられた中國俗文學の形式について考察した。特に、回目という小說の始まりの部分と章回の終りの部分に注目した。中國俗文學の大きな特徵は章回小說である。章回というのは、各小說の目次が章や回になっていることである。この章回小說は、日本には中世までは中國俗文學のようなものはなかった。中國では卷のものもあるが、時代の流れにより回や章になっているものが增えていく。さらに回目(目次)のように、二行からなる目次が流行する。こういうスタイルが日本にも傳えられ、讀本、通俗和譯本、日本人作白話文、漢文戱作の一部、明治期の文學にも影響を及ぼしている。回そのものは、言文一致の創始期の作品にも現われているが、二行の回目は用いられなくなる。さらに、章回の話の導入部に話說·却說·閑話休題のような話題轉換語も多數用いられ、中國俗文學の體裁を帶びている作品が多く見られる。中國俗文學における章回の終りの部分には結びの常套語が用いられる。これは、一般的には畢竟を伴いつつ且聽下回分解をもって結ぶという形式である。且つ下回の分解を聽けの意味で、また次の話が續くことを語り手が示す方法である。日本の文學にもそのまま受入れられて、近世の讀本、極一部の通俗和譯本、日本人作白話文、明治期の漢文小說の一部にも用いられているが、特に、明治期の飜譯·政治·講談などの文學作品に多數用いられている。明治期の場合は20年代以前の作品に集中していて、且聽下回分解のような原形を保っているものもあれば、看官次回次卷次編のような指標を用いる場合も多い。このように、中國俗文學の形式をそのまま日本文學に導入している作品が多く、中國俗文學が近世や近代の日本文學に影響を及ぼしていることが分かった。しかし、日本における章回小說の回目や結びの常套語は、言文一致の創始期である明治20年代以後は特殊な資料以外には用いられなくなり、一時的な流行であったことがわかる。

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        近代における「紅涙」について

        공수 한국일본근대학회 2010 일본근대학연구 Vol.0 No.30

        本研究では、「紅涙」の意味用法について、近代を中心に考察した。この「紅涙」は、近世には主に読本に用いられ、用例も少ないのであるが、女性の流す涙という意味用法を持っている。近代、特に明治期には実に多くの「紅涙」の例が見られ、それ以前に比べ音読みの「紅涙」が大部分を占めている点が異なる。「紅涙」は種々のジャンルにわたっていて、近世よりは近代の方がはるかに広範囲に用いられている。まず、「繁昌記」は幕末から流行しているが、事実上の幕末の作品『繁昌後記』から見られるようになる。意味用法は、美しい芸妓が流す「紅涙」であるのが特徴である。明治初期の翻訳文学にもかなりの「紅涙」の例がある。政治的性格を持つ作品が多かったが、やはり実に美しい女性が流す涙であることが分かった。日本人による小説も翻訳作品と別段変りはなく、殆んどが美人の女性や普通の女性が流す涙であった。しかし、必ずしも女性専用のものではなく、特に戦争文学で痛切の思いを表わす涙として男性も「紅涙」を流している。また、少数ではあるが評論․感想文には男性․女性を問わない中立的な表現もあった。男性の「紅涙」の使用は相対的に女性の使用に比べ少ないけれども、小島がいうような和習ではない中国風の使い方が定着したわけではないのである。小島の意見は、用例の少なさからきた誤解であったと思われる。この現象は、現代における使用状況からも裏付けられる。現代の人は「紅涙」に馴染んでいないようでありながらも、色々な意味用法で用いている。まず依然として女性が流す涙として表現しているが、明治期に比べ、美しいという要素は弱く、平凡な女性の涙になっている。男性が流す「紅涙」は多くはないが、注目すべきは「日本人の紅涙」「国民の紅涙」のように、特に男女の区別をしない中立的な用法が大幅に増えていることである。また、「子女」「男女」のような共用的なものもあり、明治期の用法(幸田露伴)を引き継いでいるとも言えるが、大幅に増えていることが異っている点である。このように男女を問わない用法の多様化が進んでいる一方、「紅涙」とつながる述語は「しぼる」が大部分を占めていて画一化の様相もみられる。これは、ネットからの抽出であるので、明治期の文学と直接的に対比させるのは無理があるが、「紅涙」の使用の流れを把握することはある程度出来たと思われる。このように、「紅涙」はひっきりなしに変容していることが分かった。

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        坪内逍遥の中国俗語趣味

        공수 한국일본근대학회 2020 일본근대학연구 Vol.0 No.69

        In this article, I tried to understand the actual state of Chinese slang through the works of Shoyo Tsubouchi. First of all, although there are few uses of pronouns and interrogative pronouns, there were examples of words in the system of “這〜・那〜” and “恁麼・什麼・甚麼”. In the case of a person or a name, the word “阿~” is often used like “阿母”, but various words are generally accepted. There are various topic-switching words such as “閑話休題・却説”, and although there are some difficult words, they are concentrated in the early works of Shoyo. Structural particles, such as “急地”,Verb-overlap styles such as “看一看” are relatively frequently used. The “有枝有葉”, which is part of the story, is a very rare example, a lot of “一伍一什” are also used. In addition, representing the sneak “〜と一般” and a relatively large number of words such as “真個・真成” that represent “本当” are also found. Besides this, many Chinese slang words can be found everywhere in the work. Although the taste of Chinese slang varies depending on the writer, Tsubouchi uses slang as much as Koyo Ozaki. China slang that is used in their work, while there is also the role of the decoration of the statement, is there was a role as pedantic element. 本稿では、坪内逍遥の作品を通して中国俗語の実態を把握してみた。逍遥の作品には種々の中国俗語が見られる。 まず、指示・疑問代名詞の使用は少ないけれども、「這〜・那〜」系統の語や「恁麼・什麼・甚麼」の例があった。「這〜・那〜」系統の語は、「這里・那里」の「里」のように後項は色々あるが、逍遥の作品にはそれほど多くはない。人称・呼称の場合は「阿母」のように「阿〜」系の語が多用されているが、全般的に色々の語が受容されている。「閑話休題・却説」のような話題転換語は様々であり、かなり難解の語があるが、逍遥の初期作品に集中している。「急地」のような構造助詞、「看一看」のような動詞重ね型は比較的に多用されている。一部始終の「有枝有葉」はかなり珍しい例であり、「一伍一什」も多数用いられている。また、比況を表わす「〜と一般」や「本当」を表わす「真個・真成」などの語も比較的に多く見られる。これ以外にも実に多くの中国俗語が作品の随所に見られ、坪内は中国俗語をかなり好んで用いていたことがわかった。 作家により中国俗語の好みは異なるが、坪内は尾崎紅葉と同様、俗語を多用している。これは、中国俗文学で用いられている語への坪内の関心が根底にあったと思われる。中国俗語を使用することは、当時の作家達には一面では流行のように認識されていたのかも知れないが、別の視点からみると、中国語の実力を発揮しているという面もあったと思われる。つまり、自分の作品に用いられている中国俗語は、文の飾りの役割もある反面、衒学的な要素としての役割もあったのである。

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        近代における「愚痴蒙昧」とその周辺について

        공수 한국일본어문학회 2022 日本語文學 Vol.95 No.-

        In this paper, I have examined “Guchimoumai” and its synonyms from various points of view. ① First, when looking at the problems based on previous research, 「愚痴蒙昧」 has been used since the Muromachi period. Since the beginning of the modern era, the term has been used less and less and has gradually changed to 「無智(知)蒙昧」. It seemed to be common to use “moumai” as a posterior element, but it was also used in various forms as an anterior element, and I found that the productivity of the word was high.. ②。It turned out that the synonyms of 「愚痴蒙昧」 are really diverse. Four-letter idioms are coined words from two-letter Chinese words with negative meanings. For the most part, it was used as a word with the implication that it was outdated in the world of 「文明開化」. ③When used to refer to oneself in the first person, it had a strong meaning of ‘humility’ rather than ‘self-deprecation’. In the case of the second person and the third person, it was used in the sense of ‘humble’ in the same way as when expressing another person. In this way, in the era of 「文明開化」, the use of negative connotations such as 「愚痴蒙昧・無智(知)蒙昧」 was in large numbers, and it is clear that this was also the era of the new Chinese language. really tells a story. 本稿では、「愚痴蒙昧」とその周辺の類義語について色々な観点から考察した。先行研究を踏まえながら、「愚痴蒙昧・無智(知)蒙昧」の諸問題は次の通りである。 ①室町時代から用いられてきた「愚痴蒙昧」は近代にはあまり用いられなくなり、次第に「無智(知)蒙昧」へと変化していく。「愚痴蒙昧」は『日国大』に登載されていない問題がある。また、『火の柱』(明治37年)から本格的に「無智□□」型から「無知□□」型へと変化したというよりは、近代全般にかけて用いられていた。また「蒙昧」は、後項要素として用いられていたことが一般的であるように見えるが、前項要素としても多様な形で用いられていた。 ②「愚痴蒙昧」の類義語が実に多様であることがわかった。先行研究では、近代の例として、「無知文盲・無学文盲・無智無学・無智蒙昧・愚痴無知・愚痴蒙昧・無智蒙昧・無知蒙昧・蒙昧不学・未開不文」を一例ずつ取上げている。しかし、多くの資料を通して見ると、四字熟語が多様な形で用いられていたことがわかった。マイナス意味の二字漢語による造語で、大部分が『日国大』の見出しとして登録されていない。 ③一方、,「人+風情」と同様に、「謙遜」と「卑下」の意味としても用いられていた。勿論、マイナス意味であるので、「おろかな、馬鹿な、知識や知恵のない、学問的に足りない、開化されていない」などの意味を持っている。この中で一人称の場合は、「自己卑下」よりは「謙遜」としての意味が強かった。二、三人称と他人の場合は、「卑下」の意味で用いられた。 このように、「文明開化」の時代にマイナス意味を持つ「愚痴蒙昧・無智(知)蒙昧」類が大量にもちいられていたのは、実に新漢語の時代であったことを物語っている。

      • KCI등재
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        近代における数字による涙の修辞

        羅工洙 한국일본근대학회 2012 일본근대학연구 Vol.0 No.37

        In this paper, we mainly through the combination of numbers and representation of the expression of a variety of tears, in modern times has been discussed whether the expression was used what. In terms of numbers representing the minority and the「一」number, there is a typical case of 「一杯の涙」「一滴の涙」、「一零の涙」. Some of what you are using the 「一」numbers, in some cases there is a 「一掬の涙」「一升の涙」 of a bushel, it becomes a tremendous amount of tears. In other words, it is not enough superlatives can be used 「一」. Looking at what will happen if the larger the number, the case of the 「十」 is not insignificant was also associated with the case of 「百」. Mostly limited to 「千・万」, but has a large enough number itself means the 「千・万」 is uncountable. Representation with a two types of 「千行の涙」 and 「万斛の涙」 is mainstream. Both types in idiomatic expressions, which is the literary rhetoric of exaggeration in everyday life is impossible.

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