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코바야시 타키지(小林多喜二)「一九二八年三月十五日」의 「소리(音)」
황봉모 세계문학비교학회 2003 世界文學比較硏究 Vol.8 No.-
小林多喜二の處女作と言われる「一九二八年三月十五日」は「音」から始められ、「音」をもって終らせた作品である。「音」は作中の中心人物たちと深くかかわりながら、この作品の全體にわたっている。龍吉、渡、工藤、佐多など作中の中心人物たちは、「音」と深く結び付けられて描き出されている。本稿では、龍吉、渡、工藤、佐多などの作中の中心人物たちを通して、この作品の中に出てくる「音」の意味について考えてみた。 例えば、佐多の「音」に對する變化は、何よりも佐多の心の問題のことであろう。不安な心と落着いた心の差が、彼の「音」に對する意識にそのまま反映されたにほかならない。彼は、「何も要らなかった。『音』が欲しかった音」とされる。彼には「音」に對する反應だけがある。佐多からすれば、「音」があるから、彼は生きていると感じる。佐多は「音」に對する意識を自分の生きている證據として受け止めているのである。このように、彼にとって「音」は救援の意味に變わっている。 ところで、こういう「音」に對する心は佐多ばかりではなかった。それは「留置場の中の全部」であった。「音」は、閉鎖されている留置場という空間を超えて、開かれている空間に屆ける。また「音」は開かれている空間から閉鎖されている留置場に屆く。 要するに、「音」には自由への希望が입められているといえよう。このように、「音」は 「留置場の中の全部」に、生きていることの象徵として、また自由への希望のメッセ一ジとして受け止められている。「留置場の中の全部」の「音」への渴望、それは自由への渴望にほかならない. そしてまた、「音」はその變化を通じて、佐多の場合に顯著なように、人物の內面の變化、換言すればその人物の變革(鍛えられた結果としての)を表現するという、重要な役割を果たしていることを、 私は讀み取りたいのである。
현월(玄月)의 「말 많은 개(おしゃべりな犬)」연구 –노부오의 경우–
황봉모 한국외국어대학교 일본연구소 2013 일본연구 Vol.0 No.57
玄月は日本で活躍している在日韓国人作家である。彼は現在日本で、最も活動的に作品発表をしている作家である。本稿は玄月の「おしゃべりな犬」を通じて、彼の文学世界を考察したものである。「おしゃべりな犬」は 二〇〇二年九月『文学界』に発表された作品である。この作品の主人公はノブオである。ノブオは性的不能という病気を持っている男で、そのために不安に悩んでいる人である。玄月はこの作品の中で、ノブオの苦悶を中心にしてコンプレックスを持つ人間について語る。ノブオの不能の原因として、彼の父と母の影響、青少年期の彷徨と友達との関係、そして生まれ育ったチンゴロ村の特殊な環境などがあげられる。ところで、自分の性的不能から妻の茜にコンプレックスを感じていたノブオは、彼女に復讐するために、集団性暴行をけしかける事件を起こす。しかし、その事件はノブオの意図したことと正反対の結果をもたらす。その事件で授かった知世を自分が誰より愛することになったのである。ノブオは知世を思い出して原罪を感じる。結局、これは原罪意識に帰結されると考えられる。彼の父母がチンゴロ村でやったこと、自分が茜にやったひどい事件、そして何の罪のないドルを殺したことなどが、知世を通して、彼に原罪として表れたのである。ノブオはこれから決して逃れることができなかったと思う。
현월(玄月) 『무대배우의 고독(舞台役者の孤独)』- 노조무(望)의 페르소나(persona) -
황봉모 한국외국어대학교 일본연구소 2008 일본연구 Vol.35 No.-
本稿は、玄月の『舞台役者の孤独』の中で、主人公の望の成長過程を通じて、望にペルソナと空想とがどのように現れているかを考察してみたものである。 要するに、幼い望は周囲の非常識的に多くの死について自己保護のために防御機制を実行する。彼は親しい人々の多くの死について哀悼と悲しみの時間を経てないで、彼らの死を炎の向こう側へ追いやる。望にペルソナが形成されたのである。彼にとって、死とは絵葉書を見るほどの感動しか与えないのであった。それは母の死についても同じであった。しかし、弟の死においては違っていた。望は弟の死を炎の向こう側へ追いやらないで、彼を慕う儀式を行う。 こういう望のペルソナは彼と精神的に結ばれたとされる繭子に読み取られる。そして、空想の中で、韓国聖堂の神父であったカラバンを通じて、望は自分の無意識の中で抑圧され隠されていた母に対する罪意識を表出するのである。そして、現実ではカラバンの助けによって、母と弟との死を認めて、はじめて母と弟とに対する罪意識から逃れることになる。 今まで現実と空想との中でさまよいながら、適当にゲーム感覚で生きてきた望であったが、母と弟に対する罪意識から逃れた望は、これから自分の道を歩んでいくのであろう。今まで彼は繭子に包まれた幼虫であった。しかしこれから彼は幼虫から脱皮された成虫になって、空を飛んでいくだろう。これは今まで彼の対話相手として、彼の無意識の世界を認識させてくれた繭子がいなくなるから、一層切実になると考えられる。望はペルソナと空想とから逃れ、自我を回復して、はじめて自己実現の道にたどり着くのである。
고바야시 다키지(小林多喜二) 「게잡이 공선(蟹工船)」 소고(小考)
황봉모 한국외국어대학교 일본연구소 2011 일본연구 Vol.48 No.-
本稿は、「蟹工船」を書くための多喜二の姿勢と'九一金'のこと、そしてこの作品においてのプロレタリア芸術大衆化の問題について考察したものである。当時、カニ工船の漁業労働者に対する搾取と虐待とは大きな社会的問題になっていた。社会的に大きな問題になっている対象を取り上げ、その事実関係と問題点を暴露したのが多喜二の作品意識で、彼がカニ工船を作品化しようとしたのは当然のことであった。彼は誰よりも、'現実にいる事実'に悩んだ作家であった。また、カニ工船にいる特別な手当制度について調べた。カニ工船の漁夫たちには'九一金'という特別手当制度があった。しかし、多喜二は'九一金'のことについて調べていたにも関わらず、わざとこの作品に中で、この問題に触れてない。これは、漁夫たちにとって、'九一金'が大金であろうが、工船を所有している資本家からすれば、それは無視してもいい金額であったからである。ここに、「蟹工船」が'九一金'のことを除いても成り立つ理由があろう。多喜二の追求した大衆化の原則は、いかなる状況でも屈しない労働者的な作品であった。結局、「蟹工船」を通じて、多喜二が話したかったのは、残虐な労働と虐待に強いられている漁夫労働者たちの'人間化'であった。これは「蟹工船」の漁夫たちだけでなく、日本にいるすべての労働者に当てはまると考えられる。これが、北洋漁業に携わっている未組織労働者という'一定の層'を取り扱ったこの作品が、その'一定の層'を越えて、すべてのプロレタリア読者大衆に受け入れられる理由であろう。そして、それは何よりも「蟹工船」が圧倒的に労働者的な作品であったからである。このように、多喜二の「蟹工船」によって、日本プロレタリア文学の芸術大衆化は一歩前進したといえよう。
고바야시 다키지(小林多喜二)의 농촌소설 연구:「방설림」「부재지주」「늪 귀퉁이 마을」을 중심으로
황봉모 한국외국어대학교 외국문학연구소 2023 외국문학연구 Vol.- No.92
This paper considers the lives of peasants in Hokkaido through Kobayashi Takiji's rural novels, "The Snow Forest" "The Absent Landowner" and "The Village at the Edge of the Swamp" Farmers from "The Snow Forest" and "The Absent Landowner" who find it difficult to live on the mainland come to Hokkaido. This is because the Hokkaido government's "Immigration Guidance" was quite favorable. However, the Hokkaido government's immigration conditions for farmers were almost fraudulent compared to the Hokkaido government's benefits for large landowners. Peasants who came to Hokkaido to own their own land were forced to become sharecroppers, just as they were on the mainland. Even in the new Hokkaido, life was difficult for the peasants, and the shadow of war loomed over them. As the peasants suffered from exploitation by landowners, they were terrified of war. Through a series of rural novels, from "The Snow Forest" to "The Absent Landowner" and from "The Absent Landowner" to "The Village at the Edge of the Swamp", Takiji depicted the rural areas being eroded by Japanese capitalism. In "The Snow Forest" he describes the work of individuals, in "The Absent Landowner" he creates farmers' organizations, and in "The Village at the Edge of the Swamp," he describes the rural areas being dragged into the war. In short, "The Village at the Edge of the Swamp" shows an anti-war consciousness against the war.