http://chineseinput.net/에서 pinyin(병음)방식으로 중국어를 변환할 수 있습니다.
변환된 중국어를 복사하여 사용하시면 됩니다.
차세대 피코위성 HAUSAT-1의 전력계 설계, 제작 및 시험
박제홍,김영현,장영근 한국항공대학교 항공우주산업기술연구소 2003 航空宇宙産業技術硏究所 硏究誌 Vol.13 No.-
This paper addresses the EPS(Electrical Power Subsystem) design, manufacturing and test results of the new generation picosatellite, HAUSAT-1, which is being developed by Space System Research Laboratory(SSRL) at Hankuk Aviation University. This paper describes a design and the choice of solar cells, batteries, power conditioning and distribution unit based on a discussion and feasibility study. It is also including parts selection procedure, manufacturing and test results by considering optimum development about cost and performance. Finally, the simulation results of power system were illustrated depending on operational mode, through energy balance analysis and it is proved by EPS test result of HAUSAT-1.
일제의 차별 교육을 통한 식민지 아동 만들기 -제3기 『보통학교국어독본(普通學校國語讀本)』을 중심으로-
박제홍 한국일본어교육학회 2011 日本語敎育 Vol.58 No.-
本稿は、日帝强占期に朝鮮總督府が1930年から1935年まで編纂した『普通學校國語讀本』の內容を分析したものである。第Ⅰ期の『國語讀本』は徹底的な國體思想を盛り入み、武斷政治を强化して民族の同質性を抹殺しようとする敎科書である。第Ⅱ期の『國語讀本』は3·1運動以後現われた朝鮮民衆を懷柔するために、表では朝鮮人物を多く登場させることで反感を和らげようとした、宥和政策と同化政策の强化という二重形態を取った敎科書である。第Ⅲ期の『國語讀本』は兒童も勞動の對象として認識し、勤勞好愛を振作させるために勤勞好愛と忠軍愛國敎育を强化した敎科書である。つまり、日帝の差別的な敎育が朝鮮人の劣等意識を助長したこと、特に『國語讀本』が朝鮮人自らにして自己卑下を內面化するように、一定の役割を果たしたことは否めない。本硏究を通じて日帝は朝鮮兒童に小國民としての權利はなく、義務のみが强調された差別的な敎育を行なっていたことがわかった。
<숫자노래(數え歌)>를 통한 日帝의 국민교화 -일본,조선,대만 초등학교 唱歌書를 중심으로-
박제홍,김순전 한국일본어교육학회 2014 日本語敎育 Vol.68 No.-
<數え歌>は日本で昔から傳來された童歌であって、明治時代に唱歌が學校で正式的に音樂科目として採擇される前には地域によって樣□多樣な歌詞にて歌われたのであった。本硏究は、敗戰前日本の小學校で使用された「唱歌」科目の敎科書に載っているわらべ歌の中で、「數え歌」の歌詞を中心に、日本帝國主義の本土と植民地、卽ち、內地(日本)·朝鮮·台灣によって、どのように變容して編集し、その狙いは何であったかを分析したものである。<數え歌>は昔から傳えられた作者未詳の日本のわらべ歌であるが、<唱歌>が敎科として指定されなかった時期には、地域によってさまざまな歌詞で子供たちによく歌われた。そのため、主にお正月や日本の民俗の遊び歌が多く歌われた。1890年<敎育勅語>の發布以後の<數え歌>は德性涵養に中點を置いた歌詞になりつつあった。1911年唱歌が初めて文部省の國定敎科目として指定されたから敗戰前までの<數え歌>は一度も欠かさず「唱歌」の敎科書に載せられた。特に戰時期に入ると、<數え歌>は皇國人民練成のための手段とされ、道具として變容つつあったのだ。同じ日帝の植民地支配下にあった朝鮮と台灣の<數え歌>と日本本土の<數え歌>とを比べると、朝鮮は日本と相當似ているが、台灣の<數え歌>は忠義よりは個人の德目の方に傾斜されがちである。從って朝鮮では<唱歌>が日本帝國主義の同化イデオロギの裝置として變容されたことがわかるようになった。要するに、日帝の皇國臣民化のための敎育が日本のわらべ歌である<數え歌>を通じても施されたということを本硏究で推量してみることができた。
박제홍,김순전 한국일본어문학회 2015 日本語文學 Vol.65 No.-
日本での軍國歌謠の普及は、滿洲事變以降新聞社と雜誌を通した歌の公募からはじまった。その中で、1932年朝日新聞社の公募曲に選ばれた「肉彈三勇士の歌」は、1935年植民地朝鮮の『普通學校國語讀本』に揭載して小學生たちに敎えられた。このように、一般大衆に歌わせるための公募曲がそのまま小學校のカリキュラムに入れられた場合は、日本でも特異な例である。これは、日帝は朝鮮を地理的に大陸進出のための架け橋とし、朝鮮兒童を將來の予備兵士卽ち、潛在的な皇軍に育てる目的で、子供等の感性を制御できる唱歌·演歌など道具として利用しつつあったのだ。ラジオをを通じた<軍國歌謠>の普及は、有名な作曲家たちの歌謠を<國民歌謠>としてプログラムに紹介しながら普及させたのだ。植民地朝鮮でも、日本の<國家總動員>體制に步調を合わせ、日本よりもやや遲い1940年代、本格的に軍歌·演歌などの<軍國歌謠>を普及させた。朝鮮人に<軍國歌謠>の意味を認識させるため、ほとんどハングル歌詞で普及された。日本で1937年に發賣してヒットされた「軍國の母」を、植民地朝鮮では1940年「志願兵の母」にタイトルを變え、朝鮮の實情に合わせて改詞した。太平洋戰時期には、ハングルと日本語と兩方の歌詞を供に採用し、曲調も軍歌のように速いテンポのが作られた。日本での<軍國歌謠>の普及はレコ一ド發賣、新聞や放送などの媒體を利用したが、朝鮮での<軍國歌謠>は日本よりは活發に受容されなかったようだ。このような推量の切っ掛けは、日本の朝鮮同化の事業に自信が欠けているせいで、「天皇」に當る「님」や「임금」と表記したことからである。一方、朝鮮の小學生の公的な敎育機關である普通學校では日本よりも强度の强い皇國臣民化敎育を施されたことに注目する必要があるだろう。