百済は、3世紀中盤の崎離営戦闘を契機に、古代国家としての飛躍的発展を成し遂げた。このような発展の背景には、帯方郡が存在していたことは、周知の事実である。しかし、今日まで...

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城南: 韓國精神文化硏究院 韓國學大學院, 2003
學位論文(碩士) -- 韓國精神文化硏究院 韓國學大學院 , 韓國史學專攻 , 2003. 2
2003
한국어
951.33 판사항(16)
경기도
漢城百濟と帶方郡の關係 : 成長と關連して
ii, 86 p.: 삽도; 26 cm.
참고문헌(p.72 - 83) 수록
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百済は、3世紀中盤の崎離営戦闘を契機に、古代国家としての飛躍的発展を成し遂げた。このような発展の背景には、帯方郡が存在していたことは、周知の事実である。しかし、今日まで...
百済は、3世紀中盤の崎離営戦闘を契機に、古代国家としての飛躍的発展を成し遂げた。このような発展の背景には、帯方郡が存在していたことは、周知の事実である。しかし、今日まで帯方郡は、具体的な実体すら明らかにされていないだけではなく、百済の成長に帯方郡が、どのような影響を及ぼしたのかなど、やはり漠然とし、推測するしかなかった。本考では、帯方郡が樂浪郡の一部ではなく、一つの個別的存在である観点から、まず、帯方郡の実体を糾明した。これを土台とし、百済と帯方郡が3世紀以後、中国と韓半島で発生した多様な対内外的変化から、各々どのような状況に置かれ、これに対処するために、どのような関係を結んだのか、そして、それが百済の成長にどのような影響を及ぼしたのかを考察してみた。今まで各章での内容を要約, 整理し、結論の代わりとする。
Ⅱ章では、帯方郡を設置した公孫氏政権の推移と性格を明らかにし、彼らが遂行した東方政策を分析し、帯方郡が設置された時代的背景を検討した。また、当時に帯方郡が、韓と倭を管轄しながら遂行した機能を、 三国志 魏書東夷伝の韓条と倭条の比較検討を通じて明らかにした。
2世紀後半に成立した公孫氏政権は独自的な独立政権で、3代50余年間、遼東郡を中心に成立した。以後、公孫氏の勢力圏に編入された樂浪郡は、中国との連繋の遮断と、高句麗․韓濊の成長によって、漸次弱化した。公孫氏政権では、樂浪郡の補完と牽制を同時に遂行するため、3C初半、載寧江一帯を中心に、黄海道地域で新たに郡県として帯方郡を設置した。以後、帯方郡は主に、韓と倭の管轄を担当しながら、対韓交渉では目支国の辰王を、対倭交渉では邪馬台国を中心に中国と諸韓国、そして日本列島を連結する活溌な交渉網を形成した。
Ⅲ章では、百済の成長に決定的な転機となった崎離営戦闘の主体勢力が、京畿道北部一帯を中心に位置した臣濆沽国であったことを明らかにし、これらが戦争を起こした原因と結果を分析した。また、この戦闘以後、百済が築いた対内外的な発展の様相を明らかにした。一方、帯方郡が百済と関係を結んだ契機を、この時期に成り立った時代状況の変化と関連して見てきた。
A.D.238年、公孫氏政権を滅亡させ、樂浪․帯方の二郡地域を手に入れた魏は、244年の東方経略で、韓半島北部一帯の秩序を再編し、続いて三韓諸国の秩序改編を断行した。間もなく、この地域でも、臣濆沽国を筆頭に、京畿北部の馬韓諸国が、246年に帯方郡の崎離営を攻撃し、大規模な戦闘が起こった。崎離営戦闘は、魏が、‘辰韓八国’の移管を通じて樂浪郡の機能を強化しようとする過程で、臣濆沽国を中心とした京畿北部の馬韓小諸国が、既存の交渉の優越権に打撃を受けながら、これに反撥し、発生した。臣濆沽国など京畿北部の馬韓諸国は、この戦闘で敗北し、大きな打撃を被った。百済はこれを契機とし、この地域での進出を本格的に推進しながら、飛躍的に発展するようになった。この時期の百済は、内部的には、拡大した社会と国家体制を整備しようと新たな改革を実施した。一方、活溌な対外交渉を遂行しながら馬韓連盟体の新たな盟主として擡頭するようになった。一方、この時期の帯方郡と樂浪郡は、二郡が受け持った既存の役割を東夷校尉府が代行しながら有名無実となり、存続の理由さえ喪失するようになる。ここに3世紀中後半以後における高句麗の圧迫と中国内部の昏乱などにより、中国との連繋さえ遮断なる。これによって、帯方郡は、百済と友好関係を結びながら独自的に活路を摸索した。
Ⅳ章では、帯方郡が高句麗の攻撃で314年に滅亡したという通説を再検討し、近肖古王代に起こった西北韓地域進出の原因を明らかにした。また、百済の体制内に編入された帯方系統人物らが、帯方郡の滅亡以後、遂行した対内外的活躍が、百済の成長にどのような影響を及ぼしたのか見てきた。
帯方郡は、314年、高句麗の大規模な攻撃を受け、信川一帯を新たな中心地として残存した。彼らは、遼東進出が挫折した高句麗が再び南下を試図された時、伝統的な親縁関係を土台に、百済に帰附した。彼らの百済への帰附は、355年以後から369年の間におこったものと考えられる。その結果、近肖古王は、武力を使わなくとも西北韓地域一帯までの領域を大きく拡大することができ、先進的な知識と技術を所有した帯方系統人才らを確保するようになった。帯方系統人物は、百済の中央政界に進出し、主に学術と外交分野を中心に活躍した。彼らは、教育制度と律令頒布などの政治体系を確立させ、儒教理念に立脚した百済の王権強化に寄与した。彼らの活動は、何よりも対外関係の側面で、より著しく現れる。この当時、帯方系統人物らの学術と外交活動は、互いに密接した連関を持っていた。彼らは、中国に派遣された使臣団として、しして先進技術輸入の旗手として活躍し、これを学術機関を通じて、百済固有の文化要素に昇華させた。さらには、彼らの各種専業博士の資格で日本へ派遣され、百済の対倭関系および、日本の古代国家発展にも寄与した。このような百済内部の変化は、風納土城の築造方式は勿論のこと、百済の横穴式石室墳などの墓制の変化にも影響を及ぼした。既存には、漠然に樂浪の影響として見てきた要素らは、今や、帯方郡の影響とみなくてはならないであろう。
以上のように、本考で論議した内容を簡略に見てきた。
漢城時期、百済は、帯方郡との関係を土台にし、600余年におよぶ百済の歷史上最も大きい画期的な一つの時代を創出した。ここには勿論、帯方郡の百済帰附とそれによる人才の流入に最も大きい原因を置くことができる。しかし、その基底には、与えられた時代状況を適切に利用し、また、これを発展の要素に活用できるほど百済が、内在的な成長を成し遂げたところに、より大きな要因があったことを忘れてはいけない。