『日本書紀』には神功紀から欽明紀にかけて、百済記・百済新撰・百済本記が引用されている。通称これらの書物を百済三書と呼んでいる。百済三書を出典とする記事こそ、『日本書紀...

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성남 : 韓國精神文化硏究院 韓國學大學院, 1994
학위논문(박사) -- 한국정신문화연구원 한국학대학원 , 역사 , 1994. 8
1994
한국어
911.033
경기도
iii, 338, viii p. : 삽화 ; 26 cm
지도교수: 강인구
참고문헌 : p.i-viii.
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『日本書紀』には神功紀から欽明紀にかけて、百済記・百済新撰・百済本記が引用されている。通称これらの書物を百済三書と呼んでいる。百済三書を出典とする記事こそ、『日本書紀...
『日本書紀』には神功紀から欽明紀にかけて、百済記・百済新撰・百済本記が引用されている。通称これらの書物を百済三書と呼んでいる。百済三書を出典とする記事こそ、『日本書紀』の韓半島関係記事の中でも、もっとも史料的価値の高い内容とも言える。それは、百済三書の根底には、百済で成立した原史料がなんらかの形で含まれているからであると推測できる。それに、その名称からも知られるように、百済三書は百済と深い関連を持つ書物に違いない。百済三書に関する研究は、『日本書紀』の出典論に止まらず、 古代韓日交渉史進んでは百済史研究にも重要な意味を持つのである。
それで、本論文では、次のような問題を追究することとした。
第一、百済三書を出典とする『日本書紀』の本文または百済三書と関連性のある記事を確定しようとした。そうしてからはじめて、百済三書の内容とその性格を論議できるためである。百済三書との関わりを判断する過程は、 まず百済三書からの引用であることを分注で明記した記事に基づいて、その記事と内容的に一貫性を保つ場合あるいは百済式の借音文字が使われている場合も、百済三書からの引用文またはそれとの関わりを持つものと見なした。
第二、百済三書の内容を『三国史記』などのほかの史料と比較・対照した。 直接的な比較ができない場合は、前後の状況と相応するかを確かめて整合的な内容であれば、百済で成立した史料を反映していることとした。それによって、百済三書の内容が『三国史記』などと一致することとなれば、両者には共通の原史料が存在することが確認できる。それにともなって、百済三書の内容から復元できる4世紀から6世紀までの歴史像を探ってみた。
の内容から復元できる4世紀から6世紀までの歴史像を探ってみた。
第三、百済三書の編纂主体または編纂過程と『日本書紀』への引用過程を考えてみた。主に百済三書の内容をその手がかりとして、百済史書説(津田左右吉)・百済撰進説(今西龍・三品彰英・井上秀雄)・百済系遺民編纂說 (坂本太郎・山尾幸久)・『日本書紀』修史局編纂說(高寛敏)などを検討しながら、各々の書物の編纂問題を再検討することとした。
その結果、百済三書の内容・用語・観念には、該当時期の百済のそれらとほぼ一致することが多い点が確認できた。当時の百済または三国で使用されたと思われる用語をはじめとして、『三国史記』の史料の空白を埋める内容も少なくない。百済記は、4世紀の半ばの百済と倭の外交関係開始という史実をはじめとし、それ以後の両国の外交過程、最後に漢城陥落と蓋鹵王の戦死までの百済の史実を伝えている。特に、漢城陥落の記事は『三国史記』 と詳しいところまでその内容が一致している。
百済新撰の内容もやはり倭との外交交渉記事が主をなすが、百済王位継承に関する異伝も含まれている。武寧王の血縁関係に関する異伝は、武寧王陵の発見によって、その信憑性が確認されているところであるが、ほかの内容も百済新撲の方が信頼できるものと考えられる。
百済本記は、5世紀末から6世紀の中盤にかけて、百済が全羅道地域を領有してまた加羅諸国へ侵入する過程を克明に伝えている。それに加えて、加羅諸国をめぐる三国の争いと倭との外交過程も知るうる。
しかしながら、百済三書ともに倭国との外交関係においては、百済が後に臣属していたかのように記録しているが、こういう記述は『三国史記』の観念とは矛盾している。百済と倭との関係に関しては、『日本書紀』の成立した8世紀の日本の観念を反映していることと見るべきであろう。
このように、百済三書が百済で成立した原史料を反映していることは確かであるとすれば、百済三書は果たしてどういう過程を経て『日本書紀』に引用されたのであろか。
まず、百済記はその内容の核心に木羅氏の始祖伝承があると見てよく、やはりその編纂主体は木羅氏の後裔氏族と思われる。というのは、(近)肖古王代の加羅七国征伐の主役は木羅斤資であり、沙至比跪によって滅ぼされた加羅を再建したのも木羅斤資である。また百済朝廷で大きく活躍した木満致に関する詳しい記事もあり、漢城陥落までを記録している点も、木満致が文周王を随行して熊津での百済再建に重要な役割をしたという『三国史記』の内容と関係付けができる。すなわち、百済記の主な内容はすべてが、木羅斤資と木満致の一代記ともいえるものである。それで、百済記を編纂した主体を木羅氏の後裔氏族と推定してみた。
百済新撰の内容からは、特定氏族の影を認め難く、百済で成立した原史料にもっとも近いものと見られる。従来、東城王・武寧王の後裔氏族と結びつ <研究傾向があったが、それは、『日本書紀』の本文と百済新撰を厳密に区別しないまま、同一視したためである。しかし、両者の内容には用語の使用、 血縁関係に関する認識に隔たりがあるので、『日本書紀』の本文は昆支との関連を認めてもいいが、百済新撰は必ずしもそうではないと判断した。
百済本記は、その内容及び紀年法・用語からみて、少なくとも三種類の史料をにわかに編集したものである可能性が高いし、編纂時期も『日本書紀』 の完成時期からそれほど遠くないと思われる。百済滅亡後、日本列島に移住した百済系遺民によって編纂された可能性は高いが、氏族を特定することは無理である。
このように、百済三書の内容は、百済史の一側面を物語るものである。百済本記のように後代の実録に近い記録がある反面、百済新撰のように、百済王室の血縁関係に関する異伝もある。実に百済三書の内容は、二百年近い期間を対象としており、百済史の史料の不足を補う貴重な史料と評価できる。
百済は滅び、韓半島には『三国史記』百済本紀と僅かな金石文を残しただけであるが、その遺民は日本列島に渡り、屈折されたものの、百済史の残影を残した。それによって、両方の立場から百済史を眺めることが可能となり、 また百済の遊民が日本列島でどういう心境で生き続けたかも量り知りうる。