後石吳駿善(1851-1931)は蘆沙奇正鎭の弟子として多い著述を殘した韓末の儒者だ. また彼は1910年亡國直後日帝が兩班を懷柔するために支給したいわゆる思賜金を拒否したことで有名だ. しか...

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2012
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900
KCI등재
학술저널
127-150(24쪽)
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後石吳駿善(1851-1931)は蘆沙奇正鎭の弟子として多い著述を殘した韓末の儒者だ. また彼は1910年亡國直後日帝が兩班を懷柔するために支給したいわゆる思賜金を拒否したことで有名だ. しか...
後石吳駿善(1851-1931)は蘆沙奇正鎭の弟子として多い著述を殘した韓末の儒者だ. また彼は1910年亡國直後日帝が兩班を懷柔するために支給したいわゆる思賜金を拒否したことで有名だ. しかし彼に關する具體的な硏究は非常に疏略した方だ. したがって彼の思想と活動が集約された著述を通じて明らかにしなければならない問題が少なくないと思う. この文では彼の義兵傳著述と後學養成を具體的によく見た. 彼は日帝に鬪爭してから殉國した義兵たちと交情が厚かった. 彼は義兵に直接加わらなかったが後日義兵傳を著わした. 1910年國が滅びると, 彼はいわゆる``抱道自靖``すなわち性理學的道と義理を守ろうとする路線を志向した. 彼は自分の意を後世に傳えるために聳珍精舍を立てて後學養成に邁進した. 吳駿善の著述と活動をより具體的に察して, 激變の時期を暮さなければならなかった知識人の苦惱を把握しようとした. そして次のような結論を引き出した. 吳駿善の義兵傳の著述時期は1910年代中半以後から1920年代末まで推測された. 彼が義兵傳を著わしたきっかけは性理學的春秋義理觀に卽して義兵の忠節を後世に博するためのことだった. 彼は同學と知己らの擧義に同意しながらも居喪と老母奉養を理由で義兵に直接加わらなかった. これは忠よりは孝を重視した彼の思想からだった. 彼は自分のそういう境遇を悲しんで嘆いている中に義兵を起こして殉國した義兵將たちの傳記を著述するので自分の責務を果たした. ただ彼は名門儒生中心の義兵長を高く評價したが一般義兵に對して注目しない限界があった. すなわち, 彼は保守的な儒生の立場で義兵傳を著わした代表的な事例て, これは桂琫禹の「義兵傳」と對比されると言える. 1910年國が滅びると吳駿善はいわゆる思賜金を拒否した後白衣を着て春秋大義を自ら實踐しながら約5年間石門山で弟子を養成した. 1917年から講學場所を聳珍山の聳珍精舍で移して鄕飮酒禮と5敎·爲學·修身·接物·鄕約などを後學たちに强調した. 1949年に刊行された『聳珍誌』によれば吳駿善の文人は總632名もなった. このなかに羅州吳氏が100名もなったし, 羅州出身が約300名もなったし長城·咸平·光州·務安出身が後を引き繼いだ. このように彼は羅州吳氏門中の師匠ながらに全南西部地域の代表的な儒者として後學養成に大きく寄與した. 一方, 彼の文人たちは1934年に日帝の許可を受けないで吳駿善の文集『後石遺稿』(全13冊, 總183秩)を刊行した. しかし『後石遺稿』は義兵傳を含め抗日的な性格のために日帝によって禁書處分を受けた. 日帝の絶え間ない彈壓と逆境の中でも彼の文人たちは聳珍精舍と後石影堂を建立したし『後石遺稿』を刊行することで師匠の學問と精神を受け繼いだ. 吳駿善の人柄と學問がすぐれたからそういう事が可能だったろう. 要するに吳駿善の義兵傳の著述と後學養成は表裏一體なのを分かった.
조선 초기 태종(太宗)과 하륜(河崙)의 천견론(天譴論)을 빙자한 정국 운영 양상