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Kanazu Hidemi 중앙대학교 외국학연구소 2010 외국학연구 Vol.14 No.2
本稿は、「裏日本/表日本」という、かつて存在した差別的意味を伴った地域区分がいかに生成されたかについて、政教社知識人の一人である志賀重昂の『日本風景論』と地理学書を主なテクストとして、その政治地理学的論理の分析を試みたものである。志賀重昂に関してはこれまで「国粋主義」思想や「南進論」といった思想史的研究と、近代地理学史の文脈からの研究が蓄積されてきたが、本稿はそこに「裏日本/表日本」論というもう一つの横糸を入れることで、その架橋を試みるという意図も含まれている。まず第一に『日本風景論』にみられる、江戸時代の和歌の巧妙な読み替えを指摘し、それがパトリオティズムとナショナリズムをつなぐ回路として提示されていることを示した。また、そこで提示される「日本風景」とは「外邦」と比較されることで、「日本内部」での地域差を示しつつも、「日本」自体へと導く論理となっていることを指摘した。そして「日本風景」の「自然地理的」要素とをあわせもった論理はより強靭な政治的力の発動となる。このような『日本風景論』に示された論理を志賀の「自然地理的手法」とよばれる諸テクストを参照することで、かれの地理学の有する政治性─本稿ではそれを「政治地理学」と呼んだが─は、かれの持論である南進論ともリンクする、帝国日本の歩みを暗示させることを指摘した。
Kanazu Hidemi 한국일본근대학회 2012 일본근대학연구 Vol.0 No.38
本稿は、戦後日本社会に定着したソフトである『日本沈没』の物語を、原作小説である小松左京『日本沈没』のモチーフを確認した上で、その後に映画やマンガといったメディアで展開された「日本沈没」の物語とともに解読したものである。その際に、批判的前提としたのは「セカイ系の困難」という1990年代後半以降の「ゼロ年代の想像力」の文脈で読み込まれる「日本沈没」像であった。国家や日本人を語らない、無関心のセカイ系をめぐる議論の危うさを指摘し、2000年代に生み出された映画「日本沈没」、マンガ『日本沈没』を題材に論じた。たしかに「日本」「日本人」というナラティブは後景に退くものの、そこには別の形で準備されるナショナルな意識、アイデンティティが存在することを指摘した。 The purpose of this paper is the decoding of the story of the "Nihon Chimbotsu(Japan Sinks)" which was settled in postwar Japanese society. I analyzed as well as the original text, but also movies and manga(comics) was made after. This paper criticized the statue "Nihon Chimbotsu" is read in the context of "Imagination of the 2000s." called 'Sekai-kei no Kon'nan(Difficult of the younger generation)'. I discussed the theme of the movie "Nihon Chimbotsu" and the manga "Nihon Chimbotsu" was made in the 2000s, and pointed out vulnerability of Sekai-kei which do not discuss the Japan and Japanese. Although certainly narrative of "Japanese" and "Japanese" is weak, and I pointed out that a national consciousness and national identity in a different way.
Kanazu Hidemi 한국일본학회 2012 日本學報 Vol.90 No.-
本稿は1930年代に本格化する「東亜医学」復興運動を主題に、帝国日本における医学という学知がいかなる問題を有していたのかに焦点を当てたものである。近年、提唱されている「帝国医学」「帝国医療」という研究潮流を前提にしながらも、それらの研究が主として西洋医学を中心に論じられていることに対し、東洋医学(漢方医学)の動向も含めて論じる必要性を提起した。そのために、まず明治以降の近代西洋医学導入の様相、帝国日本の植民地であった台湾․朝鮮、そして傀儡国家․満州での医育政策を概観した。そしてそうした状況のなかで提唱された「東亜医学」の様相を、主として東亜医学協会の設立を中心に、「昭和の漢方」が新たに担った課題はなにであったのかについて明らかにしたものである。近代以降の東洋医学は西洋医学との比較の上で、「非文明․野蛮」と名指されたが、「昭和の漢方」の課題はそれらの名指しに対抗しつつ、1930․40年代の時代的要請を受けて、「東亜の文化提携」の名のもとに日本帝国の侵略を下支えした。敗戦後に漢方医学が再度振り返られる際にも、30․40年代の動向はほとんど省みられることはなく、あるいは時局に責を預けるか、「復興への努力」として語られることでしかない。東アジア共同体が声高に語られる現在、かつての「文化提携」の語り口を検討することは必要な作業であると考える。