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야마사키 마사토시 한국고대사학회 2004 韓國古代史硏究 Vol.35 No.-
9世紀後半から10世紀前半にかけての東アシア全域に及社會變動のなかで自立目指した甄萱の後百濟は,922年(延喜22)と929年(延長7)の2回にわたり日本との通行を試みて使臣を派遺すゐ。この時にわざれた日本側に存在する外交文書を檢討すると、まず甄萱はかつて百濟が滅び、日本(倭)との交流が途絶えたのは新羅の金春秋の政略によもの であったとする歷史事實に言及しつつ、百濟の後として日本との外交關係の復活を企區したことが知られる。これは甄萱が對立を深ぬる新羅との戰爭, いしは高麗との拮抗を背景にして日本への朝貢が計畵さたことを示晙し、 從來考えられてきたように單に通商貿易を目的としたような遺使ではなかったと見るべきである。一方, 甄萱の遺使に對する日本の對は、あくまで新羅を韓半島の盟主とする立場を貫き、甄萱の自立を承認することはまったくみられない。むしろ、甄萱は新羅王の陪臣であるという認識を示してに外交はないとし、通交を拒絶する。日本の外交姿勢は、甄萱が期待したように7世紀以前の倭と百濟の交流に立ち返ろうとするものではなく、その外交論理は百濟滅亡以後の新羅や渤海との關係を基軸にして新しい禮的秩序によって再構成きれたものであり、それは甄萱が介入る地をえるようなものではなかった。