19世紀後半 朝鮮民衆から チエポタリ (つつみ(崔褓))' という名でひろくよばれた海月崔時亨(1827~1898)は 1827年3月27日 いまの慶尚北道 慶州市皇悟洞で生れた。 彼は早失父母し 青少年期には...

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성남 : 韓國精神文化硏究院 韓國學大學院, 1996
학위논문(박사) -- 한국정신문화연구원 한국학대학원 , 한국사일반 , 1996. 2
1996
한국어
250.99
경기도
370 p. ; 27 cm.
日文抄錄 : p. 345-347.
지도교수: 정창렬
參考文獻 : p. 268-344.
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19世紀後半 朝鮮民衆から チエポタリ (つつみ(崔褓))' という名でひろくよばれた海月崔時亨(1827~1898)は 1827年3月27日 いまの慶尚北道 慶州市皇悟洞で生れた。 彼は早失父母し 青少年期には...
19世紀後半 朝鮮民衆から チエポタリ (つつみ(崔褓))' という名でひろくよばれた海月崔時亨(1827~1898)は 1827年3月27日 いまの慶尚北道 慶州市皇悟洞で生れた。 彼は早失父母し 青少年期にはよそのいえで作男暮らしもし、造紙所 傭工生活で生計を維持した.19歳 結婚したあともかれの生活はよくならなかったし、主に焼き畑を耕す生活した、35歳の1861年6月、東學教祖水雲崔濟愚(1824~1864)が無極大道を悟ったということを聞いて 慶州 龍潭にいる崔濟愚をたずねて おおしえをもらいながら東撃に入激した、かれは 1861年入激した 以來至誠に修練と 布教活動をひろめ、1864年 崔濟愚が處刑された後 教圏再建の為に 布教活動に一生をすごした、かれは 1861년から 1898年 逮捕されて處刑されるまで38年間 東學 教圏をみちびいてきた人物として東學を一つの制度宗教に定着するように努力した、特にかれは 教祖 崔濟愚が布教活動3 年ぶりに逮捕されて處刑された以後、實質的に東學激圏最高指導者になって激理の體系化,教團組織の再建 および 地域別 布教活動、敦史編纂と典集成、各種教階制度と主要儀禮制定、定期 修練制度の施行、地域別 中間指導者の養成など 東學教圏が官の弾壓を乗り越えて制度宗教に發展することに必要なすべての事築を主導した、したがってかれを東學教圏の「使徒 バウルとよんでいる。
一方,1894年1月 全羅道 古阜農民蜂起をはじめ 1年間 朝鮮全域をふりまわした東學農民運動において、東學農民軍が蜂起することができる組練的 基盤は 崔時亭が直接秘密布教活動をしてつくられた 三南 地方 東學 教團組織であった、各地域別 蜂起を主導した農民軍指導者たちは 崔時亭から直・間接的な指導を受けて成長した東學 教圏の接主たちがほとんどであった、ですから崔時亭は 東學激圏史でもっとも高い比重をしめしている人物である同じに、朝鮮 近代史においてもかれの生涯と役割、思想は重要な研究對象になることは充分である。
しかしいままで東學思想を研究した研究者たちや朝鮮近代史を研究してきた大部分の研究者たちは 東學教祖 崔濟愚と東學農民運動 指導者 全率準(1855~1895)に到してはよりおおく關心をもって研究したが、38年間の東學 教圏をみちびき、東學を制度宗教に發展させた崔時亨に対してはあまり深い關心をかたむけなかった、また、崔時亨に對した極少数の研究まで東學慶民運動を主導した全球準は偉大な人物であるが全球準の舉事を挽留して參與していなかったとしられた崔時亨は卑怯な人物のように評償することによって崔時亭はながいあいだ 一般人にわがくにの近代史において歴史發展の方向をさからう「反動的人物にのこっていた。
以上のように崔時亨に對した研究と理解が皮相的で否定的なことにはいくつかの理由がある。
1. 崔時亭は38年の活動期間ずっと官の指目と手配をあたり「逃亡者の處地で生活した。 そのために崔時亭の活動に闘した資料は體系的に記録されることがでくきなかったし、部分的に記録された資料もほとんど湮滅され あちこちにちらまいて研究することにたいへんむずかしくなった。
2. 東學關聯人物研究はほとんど崔濟愚と全球準に集中されて崔時亭に對しては相對的に關心が少なかった。
3. 生活史のなかで 民衆に及ぼした東學思想と東手教圏の役割に封した關心よりも 1894年 東學農民運動にして集中的な研究をしたからである。
4. 1894年以後もっと強化された弾壓の下で分化された東學の各教派が崔時亨の役割を宗教的に潤色したり 神秘化させることによって崔時亭の生涯と行跡、思想などを正確に研究することができなかった。
この論文は崔時亭の生涯と行跡、思想を正確に明かすために、
1.いままで知られた崔時亭に調したすべての資料をもういちど検討した。
2.崔時亨が秘密布教活動をした秘密布激地を踏査して記録された資料の以外に住民たちの證言と傳えられているはなしを資料に活用しようとした。
3. いままで研究資料として活用していない新しい資料を最大に發掘して研究に活用した、この論文の第1章は崔時亨に闘した關聯資料に對して説明した内容である。
既存の資料檢討と踏査、新しい資料發掘を通じて研究した結果 崔時亨は 東寧に入激した1860年代 初期には東學 教圏のなかで道統を継承するほど有力な人物ではなかった。ただ、かれは崔濟愚の指導を受けて熱心に修練し 布教活動を展開した弟子であった、崔時亨は崔濟愚が逮捕された後 有力な弟子たちが逮捕されたことによって發生した激圏の空白を埋める活動を展開しながら 1860年代 後期から慶尙道 北部地域の中心指導者として浮上した、かれが重要指導者に浮上するごろ李弼務が主導した寧海兵覚が起きた、寧海兵は 教祖伸寃を表面に立てたので崔時亭も参加したが失敗して數百名の教徒が牲されて慶尙道 北部地域にのこっていた東學組織がほどんと瓦解された。しかし寧海兵亂は崔時亨が東學教圏の有力な指導者に浮上する重要な契機になった、寧海兵亂以後 東學再建活動が崔時亨中心にするしかなかったのである。
崔時亨は 寧海兵亂後秘密布教活動の根據地を江原道 旌善、寧越、丹陽 三郡の接境地帯に移って 1870年代 ずーと秘密布教活動を展開して東學激圏 再建に主力した、その崔時亭は1870年代に 江原道と忠清道 北部地域で多数の教徒を集め、指導體制を確立して、 巡廻布教活動再開,主要儀禮制定,定期修練會 開催、敎史編纂と 經典集成等の活動をして東學を一つの制度宗教に發展させた。
1880年代になって崔時亭は忠清道を中心として活酸な布教活動をしながら、六任制を制定して教圏組織を整備し、忠清道 報恩帳内に一種の中央本部である六任所を設置した、 それだけではなく 1880年代後期からは 全羅道地方に對した布激活動をひろめて 全羅道地方教勢がひろく増加しはじめた。1880年代になって忠清道 全羅道 地方を中心として東學の激勢が増加するに地方の守令 吏胥 土豪たちが東學布教活動を禁ずるという言い譯で教徒に封した侵虐行為がはげしくなった、地方で激徒が受難に當ることになると東學教團指導府ではその對策に苦勞した。
1890年代になって教徒たちの受難がもっと加重になった、崔時亨は 教徒たちの受難は東學教祖 崔濟愚のくやしい死が伸寃されなかったためだと看做してついに 1892年 10月教徒たちに 立義通文をおくって 教祖伸冤運動に積極的な參與を指示した、そうして教祖伸冤運動の発端になった公州聚會が 1892年 10月はじまったのである、公州聚會はその後參體聚會,光化門伏訴、報恩聚會と金 院坪聚會舎に發展した、さいしょ激組伸寃運動の要求は崔濟愚のくやしい死に對した伸冤と東學敎徒たちに對した侵虐行爲中止が中心的要求だったが激祖伸寃運動が發展しながら東學教圏 中心の要求がだんだんきえ、一般民衆の要求である斥倭洋運動に發展したのである.1892年10月から 1893年4月まで展開された激祖伸寃運動は 東學教圏と一般民衆との結合の契機になって、1894년 東學農民運動を主導する 全球準 徐章玉等が指導者に浮上する契機になったという側面で東學農民運動の前段階運動ともいえよう、1894년 東學農民運動 段階ではさいしょ 全球準の 3 月蜂起に消極的な態度を取ったが9月から 全球準と協力して反封建反外世の抗争をひろげた。
1860年代から1890年代まで 東學激圏をみちびいてきた崔時亭の行であらわれる思想の核心はつぎのようだ。1860年代に崔濟愚によって成立された東學思想の核心は '侍天主思想であった、侍天主というのはひとびとみんなが自分のなかに ない神さまをささげているという思想である、崔時亨は38年の活動期間のあいだ 侍天主思想を實踐的に解粋して日常生活のなかで擴大適用した、崔時亭が展開した實踐的侍天主思想は一言で「天地萬物莫非侍天主'1) すなわち 天地萬物がすべて奪い神さまをささげているという生命思想である、人間だけが「神さまではなく宇宙萬物 全體が ただちに「神さまという思想であるこどもも神さまであり、およめさんも神さまであり、とんでいくとりも神さまであり、野原にさいているひとつぶのはなも 神さまであるということである。 これはまた敬天敬人敬物の三敬思想に發展し、“天地即父母であり、父母即天地であり天地父母は一切也”として崔時序は 自然環境までもいきている生命でみなければならないとおしえた。
また、崔時亭は特に作男暮らしという自身の身分的背景をもとにして「事人如天を唯一な説法の主題としてひととひとの富貴貧賤と 老少男女と嫡庶奴主の別を打破するに一生をすごした、そうして崔時亨は 兩班中の庶撃たちと中人・平民・賤民たちから強力な支持を受け、身分制打破と平等社會建設にちからつくした。1860年代後半慶尙道 寧海盈德で新しい身分上昇勢力であったいわゆる新郷たちが大學 東學に加擔したが舊郷から大大的な弾歴を受け 1871年 3月 李弼済といっしょに寧海兵を主導した事實とか、1891年 崔時亨が白丁出身に知られた 南啟天を湖南左右道 便養長という重責に任命した時 全羅道地方 十六包 敎徒代表たちが不服するにその代表者格の金洛三をよんでしかっていいながらたとえ出身がひくく微微たるとしても頭領の資格があればその指揮にしたがって道を實踐しようとするこころをもつことがたたしと力説した事實などは崔時亭は實現しようとした平等思想を知られるよい事例中の一つである。
崔時亭はまた 38年間にわたった ながいあいだ逃亡者の處地でありながらも逮捕される前日まで わらじをつくりながら勞動することをたのしんんでいた、かれは弟子がそばでもうやすんでくださいとすると「神さまがやすむことをみたかといいながら木木を植え、わらじをつくり、なわをつくることをつづいた、またぬのじをおるよめにむかってかのじょがただちに神さまと強調した。このような例で發見される思想がただちにはだらく神さま「思想である、現代的表現にすると勞動のたのしさと神聖さを強調し 奥正な勞動の價値を力説したといえる、勞動で創出される價値がまったく搾取されなくそのままくりがえされる神さまの勞動こそもっとも神聖な勞動であることである。
崔時亨は 1888年 大凶年の時弟子たちに“ごはん一ちゃわんの理致をしるとすなわち眞理をしること”という「ごはん思想をひろく闡明した、健康なごはん ちゃわんはただちに宇宙 大自然と敷物昆蟲、そして人間が協同することによってつくられるし、そのごはんーちゃわんがつくられるうちには質理が含めていることを力説したのである。